「清々しき人々」旅行日記の秀作を発表した 井上通女(つうじょ)
通行の難所であった関所
一六〇〇年の関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は江戸に幕府を開府するため着々と準備を開始しますが、その一例が一六〇一年に発令した「宿駅伝馬」の制度です。街道に平均して一〇キロメートル前後に宿場を設置し、そこに宿泊施設と幕府の公用のために使用する伝馬を用意させたのです。さらに一六〇四年になると、江戸の日本橋を起点にして五街道(東海道/中山道/日光街道/奥州街道/甲州街道)の整備も開始します。
一六〇五年に後継となった二代将軍徳川秀忠は江戸の防備を堅固にするため、五街道を幕府直轄とし、道幅を拡幅、路面を砂利などで改善、両側に並木を植樹、一里塚を設置するなどの整備により、往来を便利にしました。そのような利便向上の一方、それぞれの街道には関所を設置しますが、これは関税を徴収するためではなく、通行を監視することが目的で、当初は街道全体に一七ヶ所、幕末には四六ヶ所に設置されました。
これらの関所の重要な役割は「入鉄砲出女」という言葉が象徴していますが、外部から江戸へ搬入される武器を監視する「入鉄砲」と、江戸から外部へ移動する「出女」を監視するという意味です。江戸時代には各藩は江戸に屋敷を構築し、そこに大名の妻女が人質として生活しており、それらの女性が逃亡することを防止するための手段で、通行のためには幕府の役人が発行する通行手形が必要でした。
父親と丸亀から江戸へ旅行
今回は関所を通過するのに大変な苦労をした江戸中期の歌人で何冊かの旅行日記を執筆している井上通女という女性を紹介します。江戸時代に旅行日記を執筆した女性は意外に多数存在し、残存しているだけでも一三〇編ほどあります。それらの記録は高貴な身分の女性だけではなく、庶民の女性によるものもあり、当時の社会全体の教育水準が高度であったとともに日本の社会基盤が整備されていたことを示唆しています。