「清々しき人々」日本の近代医学を開拓した 北里柴三郎

 日本のノーベル賞受賞者は戦後の一九四九年にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士が最初です。これは戦後の重苦しい時期の日本にとって光明をもたらす快挙でした。戦前にも候補になった学者は何人も存在しましたが、残念ながら受賞にまでは到達しませんでした。しかし、ノーベル賞の表彰制度が開始された最初の一九〇一年に有力な候補になっていた日本の学者が存在します。その学者を今回は紹介します。

東京医学校に入学

 江戸末期の嘉永五(一八五三)年の年末に豊後国(大分県)と隣接する肥後国(熊本県)の北東にある小国郷北里村の庄屋の家庭に誕生したのが今回紹介する北里柴三郎です。武家の出身で江戸での生活経験もある母親の厳格な指導によって成長し、明治時代になった一八六九(明治二)年に細川藩の藩校である時習館に入学しますが、翌年に廃校になってしまいます。そこで一旦帰郷して、地元で教師をして生活していました。

 しかし、一八歳になった一八七一(明治四)年に細川藩が開所した古城医学所(現在の熊本大学医学部)に入学し、オランダから来日し、長崎医学所の教師であったC・G・ファン・マンスフェルトに出会います。マンスフェルトからは医学だけではなく語学も指導されますが、北里は語学の才能があり、翌年には通訳をするまでにオランダ語が上達しました。しかし一八七四(明治七)年にマンスフェルトは帰国してしまいます。

 そこで医学の分野で活躍しようと決心した北里は一八六八年に創設された東京医学校(現在の東京大学医学部)(図1)に入学し、そこで医学を勉強します。生来の強気の性格のため教授の論文に口出ししたりしていたため順調に進級できず、何度も留年して三一歳になった一八八三年に卒業しました。成績は二六名中八番でした。大学での経験から「予防医学が医師の使命」と確信し、内務省衛生局に就職することを選択します。

図1 小石川植物園に移築された東京医学校

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