「清々しき人々」津田塾大学を創設した女子教育の先駆者 津田梅子

米欧へ大使節団を派遣

 一七世紀末期の名誉革命により近代国家になったイギリス、一八世紀後半の革命によって近代国家になったフランス、さらに独立戦争によって近代国家になったアメリカなどは、急速に世界各地に進出し植民地争奪戦を開始します。日本周辺にも一八世紀末期のロシアの艦船の出没を最初として、各国の艦隊が次々に登場しますが、その象徴がM・ペリーを隊長として四隻の艦船で一八五三年夏に浦賀に出現したアメリカの黒船来航でした。

 その威容に彼我の格差を痛感した徳川幕府は西欧社会の実態を調査するため、一八六〇年に遣米使節、六二年に遣欧使節、六四年には遣仏使節、六六年に遣露使節、六七年には再度、遣仏使節を派遣します。しかし翌年に明治維新となり、一旦、海外視察は中断しますが、一八七一年には明治政府の重鎮である公家出身の岩倉具視を特命全権大使とし、使節四六名、随員一八名、留学生四三名の総勢一〇七名にもなる大使節団を米欧に派遣します。

 著名な人々として、使節では初代総理大臣になる伊藤博文、維新三傑とされる大久保利通と木戸孝允(もう一人は西郷隆盛)、随員では西南戦争で自決する村田新八、釜石に日本最初の西洋高炉を建設する大島高任、五箇条の御誓文を起草した一人の由利公正などがいました。留学生には外務大臣などを歴任する牧野伸顕、自由民権運動を指導する中江兆民などが有名ですが、五名の女性もいました。その一人が今回紹介する弱冠六歳の津田梅子でした。

関連記事一覧