「清々しき人々」命令に違反して多数の人命を救済した 杉原千畝
リトアニアという国家
北欧のバルト海の東側にバルト三国と総称されるエストニア、ラトビア、リトアニアという国家があります(図1)。人口は一三三万人、一八九万人、二八〇万人で、面積もそれぞれが九州と四国を合計したほどの小国です。これら三国の東側はロシアとベラルーシ、南側はポーランドという大国に隣接する位置にあり、複雑な歴史を経験してきました。この最南に位置するリトアニアに関係する有名な人物を今回は紹介します。
リトアニアに最初の国王が誕生したのは一二五三年とされ、一四世紀にはヨーロッパで最大の面積を領有する国家に発展します。以後、周辺の国々からの侵略などにより苦難の歴史を経験し、一九一八年にリトアニア王国、さらにリトアニア共和国として独立しますが、一九三九年にナチスドイツとソビエトが侵攻し、一九四〇年に独立を喪失します。以後、苦難の独立運動の結果、一九九一年に独立しました。
カウナスの領事代理
この一九四〇年の混乱の時期にリトアニアで活躍した杉原千畝という日本人外交官がいます。一九〇〇年に岐阜県上有知町(現在は岐阜県美濃市)の税務官吏の杉原好水の子供として誕生します。小学生時代から成績優秀で、一八年に早稲田大学高等師範部英語科予科に入学しますが、生活に困窮していたため、外務省留学生試験を受験し、一九年に官費留学生となり中華民国のハルピン学院に留学してロシア語を勉強します。
成績優秀であったため二四年には講師になり、ロシア人の女性と結婚します。流暢な言葉を駆使するため、関東軍が杉原にスパイになるように要請しますが、拒否したため、結婚したロシア人女性はソビエトのスパイであるという風説を流布され、離婚することになってしまいました。帰国して菊池幸子と再婚しますが、離婚した相手に多額の金銭を支払ったため結婚の記念写真も撮影できないほどの貧困生活での出発でした。