「清々しき人々」命令に違反して多数の人命を救済した 杉原千畝

 一旦帰国した杉原はモスクワの日本大使館に赴任する予定でしたが、前妻がロシア人であったことが影響してソビエトが杉原の赴任を拒否したため、一九三七年にフィンランドのヘルシンキにある日本公使館に赴任しました。さらに二年後の三九年八月にリトアニア共和国の臨時の首都カウナスの日本領事館(図2)に領事代理として着任します。翌月にはソビエトが隣国のポーランド東部に侵攻を開始する切迫した時期でした。

図2 カウナスにある旧日本領事館

 この時期にはドイツの全権を掌握したA・ヒットラーがユダヤ人迫害を開始しており、多数のユダヤ人難民が極東へ避難すると予想されていました。実際、一九四〇年七月にはドイツがポーランドを占領したため、多数のユダヤ人がリトアニアにある各国の大使館や領事館からビザを取得しようと殺到してきましたが、大半の国々が大使館や領事館を閉鎖していたため、閉鎖していなかった日本領事館にユダヤ人が殺到してきたのです。

訓令を無視してビザを発給

 ポーランドでのユダヤ人の迫害状況を熟知していた杉原は殺到してきたユダヤ人の代表と話合い、数人なら自分の判断でビザを発給できるが、多数では独自に判断できないと説明し、日本の本省に「ソビエトを鉄道で横断するのに二〇日、そこから日本に移動して最大三〇日滞在して第三国に移動するビザを発給することの許可」を電報で請訓しますが「目的国の入国許可を取得している人間にのみ発給せよ」という返答でした。

 しかし公邸の周囲に多数の難民が殺到している状況を目撃した杉原夫妻は本省からの訓令に違反し、領事の権限でビザを発給する決断をし、受給要件を満足していない人々にも独断でビザを発給していきました。日本の本省からは「日本を経由して第三国へ移動するリトアニア人で、必要な金銭を所持せず、第三国の許可書類がない場合は上陸を許可できない」など注意されますが無視して発行していきました。

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