「清々しき人々」命令に違反して多数の人命を救済した 杉原千畝

 当初は一人一人に面接し、目的国の入国許可証の有無、旅行に必要な金銭の有無を確認していましたが、大量の人々が館外に殺到している状況から時間の節約のため次々と発行し、手数料の徴集も廃止しました。また開設したばかりの領事館には印刷したビザの用紙も用意されていなかったため、すべて手書きで発行していきました(図3)。やがて万年筆が故障してペンとインクになり、閉館時間になると疲労困憊という状況でした。

図3 手書きのビザ

 ソビエトからは何度も退去命令が送付され、日本の外務省からも領事館退去命令が到達しましたが、それらを無視してビザの発行を継続していました。さらに杉原の人間性を象徴しているのは夫人の幸子に手伝わせなかったことです。万一、ドイツに逮捕された場合、手伝っていれば刑罰の対象になることに配慮したためです。約四〇〇〇人分のビザを発行して体力は限界に到達し疲労困憊でしたが、それでも継続しました。

 しかし、八月二八日に領事館を閉鎖してベルリンに移動することを命令する電報が外務省から到達、ついにビザの発給業務を中止せざるをえませんでした。そこで機密書類を焼却し、荷物を整理して退去することになります。後半には時間の節約のためにビザの発行状況を記録しなかったため、正確な発行枚数は不明ですが、一枚で帯同可能な家族の人数も合計すると約六〇〇〇人分のビザを発行したと推定されています。

 しかし、杉原が発行したビザを入手できたユダヤ人難民のすべてがシベリア鉄度で極東まで到達できたわけではありませんでした。外貨不足であったソビエトは高額の乗車料金を設定しており、急遽、逃避してきた人々が支払える金額ではありませんでした。乗車できない人々はドイツの軍隊に逮捕されて強制収容所に移送されて絶命しており、とりわけカウナスのユダヤ人社会は甚大な被害に遭遇したとされています。

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