「清々しき人々」命令に違反して多数の人命を救済した 杉原千畝
帰国して外務省を退職
領事館の整理を終了して九月一日にカウナスから国際列車でベルリンに出発しますが、列車の到着を待機している時間にもビザを要請されて発行していました。列車がカウナスを出発するとき、何人ものユダヤ人が「バンザイ・ニッポン」という歓声とともに杉原を見送ったとされています。しかし、日本の外務省では国際関係が切迫している時期に多数の難民が日本に到来したことを迷惑とし、杉原は叱責されていました。
カウナスの日本領事館が閉鎖されて以後、杉原はフィンランドやルーマニアなどの公館で勤務しました。一九四五年の終戦とともにソビエトに身柄を拘束されますが、翌年、帰国が許可され、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックとソビエト領内を転々と移動し、ようやく四七年に博多に入港しました。しかし、リトアニア領事時代に規律違反でビザを発給したことが原因で一九四六年に外務省を退職していました。
ようやく認知された杉原の勇気
それ以後は民間の企業を転々として苦労しますが、リトアニアでの杉原の行動は日本の外務省が無視していたため社会に公開されないままでした。しかし一九六八年になって杉原の発行したビザを受給して国外に逃亡できたイスラエル大使館の参事官Y・ニシュリが杉原の連絡先を発見して面会し、さらに翌年、杉原がイスラエルで宗教大臣Z・バルハフティクに面会し、ビザ発給の真相が明確になり、大臣が驚嘆します。
しかし日本では依然として杉原の行動は公開されず、それを批判する意見が登場するようになります。ドイツの記者G・ダンプマンは著書『孤立する大国ニッポン』(一九八一)で「なぜ日本政府が杉原を表彰せず、教科書は若者の手本とせず、新聞やテレビジョンも題材としないのか」と記載しています。ようやく一九八三年にフジテレビが「運命をわけた一枚のビザ:四五〇〇のユダヤ人を救った日本人」という番組を放送しました。