「清々しき人々」旅行日記の秀作を発表した 井上通女(つうじょ)

江戸で評価された才能

 ここまでの内容は通女の記録した『東海日記』による内容ですが、ここで日記は終了しています。初冬の寒気が襲来する季節に、毎日、夜明けとともに出発する過酷な日程に関所通過の心痛が加算されて体調不良となり、父親が日記の継続を禁止したためです。箱根関所は関所手形の不備もなく無事通過して江戸に到着し、藩邸では藩主の母堂の養性院の侍女としての仕事以外に、藩主自慢の才女として会合などにも随伴します。

 その才能は際立っており、江戸の学者に評価されますが、女性が学者として立身することは困難な時代で、儒者の室鳩巣(むろきゅうそう)は通女が女性であることを残念がっていたといわれます。この江戸での生活は『江戸日記』に記録されていますが、三〇歳になった一六八九(元禄二)年に養性院が逝去し、丸亀に帰郷します。その気持ちを「秋ならで/露けきものは/君を置きて/むなしく帰る/野辺のわか草」と記録しています。

 実弟の井上市兵衛益本に同伴されて帰郷する旅路は『帰家日記』に記録されており、箱根関所(図3)での検分の様子も記載されています。通女は「出女」に該当しますから、厳格な検査を経験することになりますが、取調べの女性が毛髪はバラバラにして検査するだけではなく、腰布を除去して秘所を検査することもあったようで「いかならんと胸つぶるる心地しつる」と記載しています。容易ではなかった旅行の様子が想像できます。

図3 再建された箱根関所

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