「清々しき人々」日本の生物境界を発見した商人 トーマス・ブラキストン

 一八五三年に勃発したロシアとのクリミア戦争には終戦の五六年まで砲兵として参戦、その功績により戦後には大尉に昇進しています。戦争が終了し、五七年から翌年にかけて北米大陸を調査するイギリスの探検隊に参加してロッキー山脈などで鳥類の調査をしました。六一年からは軍務として中国の揚子江上流域の調査にも参加し、帰途には箱館に約三ヶ月滞在しており、これがやがて箱館で生物調査をする契機になりました。

 この中国を調査旅行したことと箱館に短期滞在した経験を評価され、ブラキストンはイギリスの「西太平洋商会」に雇用されて極東で木材貿易などをすることになります。一八六二年に夫人とともにロシアの極東のアムール地方に到達し木材を調達しようとしますが、ロシアが許可してくれなかったため、前年に短期滞在した経験のある箱館を目指すことになりました。これが以後、箱館に二〇年間滞在する契機でした。

北海道内で鳥類の研究

 箱館は一八五九(安政六)年に長崎、横浜とともに開港されて人口も一万人弱に発展していました(図3)。しかし、イギリスから来訪した夫人は極東の港町の単調な生活に馴染めず、しばらくして帰国してしまいました。そこで商売も順調に発展しつつあったこともあり、ブラキストンは趣味の鳥類研究を開始します。一八七四(明治七)年には道南地方と渡島半島の日本海側、翌年には根室から宗谷までの海岸を調査します。

図3 1863年頃の箱館

 軍人であったため鉄砲の操作は手慣れており、道内各地で次々と鳥類を収集していきました。しかし本業の木材の産地についても並行して調査し、その結果、木材の入手が困難になった函館の製材工場を一時は釧路に移設したこともありました。ブラキストンが道内の隅々まで探査していたのは鳥類を調査し収集するだけではなく、本業である木材の輸出の適地を模索していたことも反映していたようです。

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