「清々しき人々」日本の生物境界を発見した商人 トーマス・ブラキストン
気象観測機器や製材機械を導入
ブラキストンが近代日本にもたらした別種の重要な功績は気象観測技術です。北海道における気象観測の最初は函館のロシア領事館付医師として一八五九(安政六)年に来日したM・H・アルブレヒトですが、翌年に帰国してしまったため途絶えていました。それを再開したのがブラキストンです。ブラキストンは一八六七(慶応三)年にブラキストン・マル商会を設立して三隻の汽船を運用していたので、正確な気象情報が必要でした。
そこでイギリスの正式の検定を通過した気圧計、温度計、湿度計などの高価な観測機器を輸入し、自社で気象観測をしていました。これを継承したのが福士成豊という若者でした。箱館に設立されたイギリスのポーター商会に勤務し、測量や気象予報を勉強していましたが、一八七二(明治五)年にブラキストンから気象観測機器を譲渡され、それらの機器を自宅に設置して観測をし、日本で最初の気象予報を開始しました。
ブラキストンは人力で簡単な道具を使用して製材していた当時の日本に機械による製材技術を導入したことでも貢献しています。木材の産地スコットランドで使用されている製材機械と駆動する動力を発生するボイラーを輸入し、函館の海岸付近に設置して木材を角材や厚板に加工し、自社の三隻の汽船で中国など周辺の国々に輸出していました。研究者としてだけではなく実業家としても大変な実績のあった人物でした。
次第に発生した毀誉褒貶
このような事業の成功によって富豪となったブラキストンが函館に建設した自邸は当時は貴重なガラスを全面に使用した二階建ての豪邸で、ブラキストンは「函館の王様」として通用していました。当時は世界最強の地位にあったイギリスからすれば、日本は貧弱な国家でしたから毀誉褒貶が発生することは当然ですが、生物の生態を観察してブラキストン・ラインを発見した時期とは別人になっていたのかもしれません。