「清々しき人々」日本の近代医学を開拓した 北里柴三郎

 大変に残念な結果ですが、いくつかの背景がありました。第一にベーリングが『ドイツ医学週報』の次号に血清療法の詳細な結果を単独で発表したこと、ノーベル生理学・医学賞を選考したスウェーデンのカロリンスカ研究所が血清療法はベーリングが開発したもので、北里は実験結果を提供しただけであると判断したこと、さらに初期のノーベル賞は共同受賞の仕組みがなかったことなどが理由とされますが残念なことでした。

脚気の原因の論争で騒動

 一八九二年に帰国した北里は日本でも論争に関係することになります。当時、日本では軍隊で脚気が流行し、弾丸で死亡する兵士より脚気で死亡する兵士が多数であるという状態でした。日露戦争では陸軍で四万七〇〇〇人の兵士が死亡していますが、銃弾で死亡した兵士は一万九〇〇〇人である一方、脚気で死亡した兵士が二万八〇〇〇人という状況でした。ところが海軍では脚気によって死亡した兵士はきわめて少数でした。

 北里が留学している時期にオランダの学者が脚気の病原菌を発見したという論文を発表します。北里はコッホの指示で追試をしたところ、病原菌説は実験の不備によるもので、原因は栄養の偏りであることを明確にします。日本の陸軍と海軍の差異の原因も海軍の主食が麦飯であるのに陸軍は白米であることでした。しかし、その病原菌説を主張しているのは北里を留学させてくれた恩人の緒方であるため、発表を躊躇していました。

 しかしドイツでの恩師の一人F・レフレルに「学問の世界では私情に左右されてはいけない」と説得され、脚気病原菌説は間違いと発表します。緒方は反論しますが、より強力に批判したのは東京医学校出身で陸軍軍医部長の森林太郎(鴎外)でした。当時の兵士の大半は白米に縁遠い寒村出身で、せめて兵役の期間には白米をという温情が背景にありました。鴎外は「識を重んぜるあまり情を忘れしのみ」と北里を酷評しています。

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