「清々しき人々」日本の近代医学を開拓した 北里柴三郎

窮地の北里を支援した福沢諭吉

 この母校との複雑な関係を拡大する事件が発生します。一八九〇年にコッホは結核の治療に有効なツベルクリンを開発します。これは後程、治療には無効であることが判明しますが、当時は大変な反響で、世界から学者がコッホを訪問しました。日本政府も東京大学の三人の学者を派遣してコッホから情報を入手しようとしましたが、コッホは日本からはすでに研究者(北里)が在籍していると対応しませんでした。

 脚気病原菌説による北里と東京大学との対立、そしてツベルクリンの情報入手についてコッホの日本の学者への冷淡な対応が重複し、北里は日本で困難な状況に遭遇します。一八九二年に六年半になるドイツでの研究生活を終了して帰国を決心します。ノーベル賞候補にもなった北里には世界の大学や研究機関が招聘しようと接触しますが、北里は同胞を病気から救済するために日本で研究を継続すると帰国しました。

 ところが東京大学を卒業した医学関係の人間が多数所属している日本の政府機関は、それらの人々に気兼ねして北里を雇用しようとせず、北里は帰国したものの研究する場所が発見できませんでした。そこに登場したのが福沢諭吉です。福沢は子供の住宅を建設するために芝公園に土地を購入していましたが、一八九二年に、そこへ建坪一〇坪程の二階建ての木造建築を建設して「私立伝染病研究所」として北里を所長とします。

 翌年には建物が手狭になり、東京都から芝区愛宕町の用地を入手して移転を計画します。しかし近隣住民だけではなく、帝国大学初代総長の渡辺洪基までもが伝染病の研究は危険だと反対します。そこで福沢は敷地の付近に土地を購入して自分の次男の住宅を建設し、北里の研究は安全だと宣伝するほど応援しますし、帝国議会の議員一八〇名が財政支援を決議し、補助金を支出して応援した結果、一八九四年に移転が実現します。

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