「清々しき人々」高齢社会の手本となる 貝原益軒

 一六八五(貞享二)年に五六歳の益軒が一人で江戸から日光まで旅行した記録『日光名勝記』を参考に、旅行の様子を紹介します。日付は記録されておらず正確な月日は不明ですが、芭蕉が『おくのほそ道』の旅行に出発した四年前のことです。現在、隅田川には鉄道橋や自動車専用橋を除外すると二五本の橋梁がありますが、益軒が日光に出発した時点では千住大橋と両国橋の二本しかなく、奥州へは千住大橋から出発しました。

 千住大橋から奥州街道を進行して宇都宮に到着し、そこから日光街道へ分岐しますが、それまでの平坦な道路とは相違して山道になります。現在では両側は鬱蒼とした杉並木ですが、これは相模甘縄城主の松平正綱と信綱の親子が一六四三(寛永二〇)年から植樹を開始した並木であるため、当時は巨木ではありませんでした。さらに前年の年末には今市で大火が発生しており、焼跡を両側にしながらの旅路でもありました。

 東照宮の手前の大谷川には神橋が架橋されていますが、将軍や勅使以外は通行が禁止されており見物するだけでした。そこで徳川家康を祭神とする日光東照宮に参拝し、さらに三代将軍家光の廟所である大猷院に参詣しようとしますが公開されておらず、大谷川沿いに山道を登坂し、中禅寺湖や男体山などを見物したと記録しています。しかし博物学者だけあり、数多くの野鳥についての生態や鳴声なども記載されています。

高齢社会の手本となる益軒

 益軒夫婦には子供ができなかったので、兄の子供を養子にしましたが、益軒から昼間の生活態度だけではなく寝相にまで干渉されるために逃亡してしまったため、さらに兄の次男を養子にしますが、金銭にだらしがなく、厳格な性格の益軒は苦労します。そこで自分が死亡して以後の養子の生活を憂慮して『家道訓』を出版します。そこでは質素と倹約が生活の基本だと強調していますが、道楽息子には効果がありませんでした。

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