中西 哲夫さん(スポーツジャーナリスト)
夢を追え、と親はなかなか言えないと思います
バブル真っ盛りだった、当時の世相もあるかと思います。後は、実は両親は凄く計算して、僕に発言していたのかもしれないんです。父が、夢を勧める一方、母は、現実路線を口にします。多分、お互いが反対のことを薦めようと相談していたんじゃないかな。
プロサッカー選手の寿命は一般に短命ですね
そうですね。それも父に言われていました。プロになった瞬間にプロを辞めた時のことも考えろ、と。仮に30歳までやれたとしても、それまでもう8年しかない。8年の間に、その後何をして、生きるのかを準備しておけと言われたんです。だからプロになった瞬間から色々やっていたんです。英語をもう一度やろうと思って、家に招かれる父の研究室の学生に習ったり、家では英語で会話したりしていました。これからの時代、パソコンは絶対に必要になる、と早くからブログも始めました。おそらく始めた当初、サッカー選手でブログをしていたのは3人に満たない程度だったと思います。また、現役時代から本の出版、サッカー誌『ナンバー』に寄稿していました。きっとそのうち、自分がしていることが、プロ選手の当たり前になるに違いない、そんなことを考えながら、邁進する毎日。気付けば、引退寸前の頃には、原稿用紙30枚程度の原稿を、プロサッカー選手と並行して書けるようにまでなっていました。今も続ける『買い物コラム』もこの頃から既に書いたり、写真を撮ったりしていました。かれこれ15年になりますね。
文章を書き始めたのはいつごろから
スポーツジャーナリストになるなら、論理的思考力を瞬時に組み立てられないといけない。そのためには、文章を書けないと、ということを知り合いの編集者の方に言われたんです。ただやはり、最初は難しかったですね。でもこれも、言われたのですが、君はおしゃべりだから書けるはずだよ、って。こんなにしゃべることがあるんだから、それを書けばいいんだよ、そう聞いて、ああ、そうか、だったら書けるな、と思った途端、書けるようになっていきました。それに、サッカーを通じて、コツコツ努力を積み上げることの重要さを知っていたんです。凄く丁寧に積み重ねた修練は、いつか大きな成果に結びつくと、身をもって知っていたんですね。地道の重要性はサッカーに教わった、一番の宝物かもしれませんね。
プロを引退する決断はどんな風に
引退を決めた直接の理由は、2002年に控えた日韓共催のFIFAワールドカップです。このサッカーの一大祭典に、きっと関連の仕事も増えるに違いない、そう当たりをつけたんですね。それに、名古屋で5年、東京で4年、東京に来てからいろんな出会いもありました。常々、引退後の準備はしていましたから、自分としては、このタイミングならいける、そう思ったんです。でも、現実は厳しい。蓋を開けると、仕事はあまり無かったですね。サッカーの解説などの仕事は、〈元日本代表〉という肩書きが、特に優遇されます。そうしたものを持たない僕が抜きん出るのは、中々難しいことでした。それでも、照準を合わせ、しっかりとした下準備は無駄ではなく、少ないながらも、徐々に仕事は増えていきました。