「清々しき人々」ポルトガルを世界に飛躍させた エンリケ航海王子

 これによってポルトガルの船隊はアフリカ南部から金鉱を調達して帆船で大量に母国に運搬するようになり、ポルトガルの経済は発展し、一四五二年には最初の金貨が発行されるまでになります。さらに探検は進行し、多数の帆船がヴェルデ岬を中継地点として南下し、一四六〇年には現在のシエラレオネ付近まで到達するようになります。しかし、その一四六〇年にポルトガルを大国にしたエンリケは王子の村落で死亡しました。六六歳でした。

アフリカ大陸南端を周回

 エンリケが目指したアフリカ南端の周回航路はエンリケの存命期間には実現しませんでしたが、一四八一年に即位したジョアン二世が意思を継承します。まず一四八八年にB・ディアスがアフリカ南端を発見します。ディアスの指揮する二隻の帆船は強風のため一三日間も漂流し、陸地を見失ってしまい、接近しようと東進しますが陸地が出現しませんでした。そこで北上すると左手に陸地が遠望できました。暴風に翻弄されて意識せず南端を通過していたのです。

 一四九五年にジョアン二世が逝去し、後継のマヌエル一世が事業を継承してインドへの東回り航路の開拓を支援します。九二年にスペイン女王イサベル一世の支援でC・コロンブスが西回りでインド(実際はアメリカ)に到達したという航海に対抗するために、ポルトガルは東回り航路を発見する必要がありました。そこで隊長に指名されたのがV・ダ・ガマでした。四隻の帆船からなる艦隊は一四九七年七月に盛大に見送りされリスボンから出航しました。

 途中までは一〇年前にアフリカ大陸南端に到達していたB・ディアスが同伴しますが、ヴェルデ岬からは四隻になり、十一月にアフリカ大陸南端を通過し、陸沿いに北上、一四九八年五月にインドのカレクト王国に到達しました。以後、ポルトガルはアジアにも進出し、西洋の人間として最初に日本に到来したのはポルトガルのF・ザビエルで「発見のモニュメント」にも彫像が設置されています。ポルトガルは一五世紀には世界を二分する大国だったのです。

つきお よしお 1942年名古屋生まれ。1965年東京大学部工学部卒業。工学博士。名古屋大学教授、東京大学教授などを経て東京大学名誉教授。2002─03年総務省総務審議官。これまでコンピュータ・グラフィックス、人工知能、仮想現実、メディア政策などを研究。全国各地でカヌーとクロスカントリーをしながら、知床半島塾、羊蹄山麓塾、釧路湿原塾、白馬仰山塾、宮川清流塾、瀬戸内海塾などを主催し、地域の有志とともに環境保護や地域計画に取り組む。主要著書に『日本 百年の転換戦略』(講談社)、『縮小文明の展望』(東京大学出版会)、『地球共生』(講談社)、『地球の救い方』、『水の話』(遊行社)、『100年先を読む』(モラロジー研究所)、『先住民族の叡智』(遊行社)、『誰も言わなかった!本当は怖いビッグデータとサイバー戦争のカラクリ』(アスコム)、『日本が世界地図から消滅しないための戦略』(致知出版社)、『幸福実感社会への転進』(モラロジー研究所)、『転換日本 地域創成の展望』(東京大学出版会)、最新刊「AIに使われる人 AIを使いこなす人」(モラロジー道徳教育財団)など。モルゲンWEBの連載「清々しき人々」とパーセー誌の連載「凜々たる人生 ─ 志を貫いた先人の姿 ─」からの再編集版として、『清々しき人々』、『凛凛たる人生』、『爽快なる人生』(遊行社)など。

(モルゲンWEB2024)

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