「清々しき人々」津田塾大学を創設した女子教育の先駆者 津田梅子

再度アメリカへ留学

 六歳で外国に旅立ち、一一年間も日本を留守にしていた梅子は日本に英語で手紙を送付していたほど日本の言葉も十分に習得しておらず、日本の風習にも不慣れであったため、適切な仕事に就職できませんでした。しかし、一八八三年に、ある夜会で岩倉使節団の船内で面識のあった伊藤博文に再会し、下田歌子という女性を紹介されます。歌子は宮中の女官でしたが、八二年から政府高官の夫人を教育する桃夭女塾を自宅で開講していた女性です。

 そこで桃夭女塾で英語の教師として勤務するとともに、伊藤の英語指導や通訳としての仕事をしていました。さらに八五年には学習院女学部から独立して設立された華族女学校の英語の教師として勤務しますが、上流階級の気風に馴染まなかったうえ、年頃になったために何度ももたらされる縁談にも興味がなく、生涯未婚を決意するとともに、いずれは日本女性の地位を向上させる学校を設立したいという意欲を醸成していきます。

 そのような時期に来日した留学時代の友人A・ベーコンに刺激され、再度の留学を目指し、華族女学校の西村茂樹校長から許可を取得します。この西村も人物であり、一八二八年に佐野藩堀田家に誕生して藩校で勉強、ペリー艦隊来航のときには老中阿部正弘に海防政策を提言しています。明治になってからは教育制度の確立に尽力し、七五年から一〇年間は天皇と皇后に進講もしていました。そのような背景から梅子の留学を許可してくれたのです。

 そこで梅子は一八八九年にフィラデルフィア郊外にあるブリンマー大学に留学します(図3)。この大学はアメリカ北部の名門女子大学七校の一校で、T・H・モーガン教授の指導により生物学を専攻します。翌年には「カエルのタマゴの発生」という論文を共著で執筆し、イギリスの学術雑誌に発表します(図4)。このモーガン博士は一九〇四年には名門のコロンビア大学に移籍し、一九三三年にはノーベル生理学医学賞を受賞している大物でした。

図3 ブリンマー大学
図4プリンマー大学時代

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