小野 正嗣さん(作家・第152回芥川賞受賞)
閉された田舎から都会へ、相当のカルチャーショックがあったのでは
大学の先生にも、あまりの物の知らなさを、最初、半ば呆れ気味に指摘されましたね。ただ、先生は、でも、その距離感は普通じゃない、作品を作る場合、こと芸術においては、シュールレアリスムにも見られるように、その違い、ギャップが、何か予見不可能な面白いものを生み出す可能性がある、と続け、励ましとも期待ともつかないような言葉を掛けてくれました。
当時の東京は共働きも圧倒的多数ではないですね
東京に来て、新しい友達と話すうち、お母さんが働いていない家庭の多さに驚きましたね。そういう意味では、何も知らない事が、寧ろ新鮮な驚きや発見につながって良かったと思います。とはいえ、知らないことは恥、と感じる世代ですから、大学では自然と耳をそばだて、見知らぬ言葉を集めては、雑誌や書籍を漁り調べていました。今、大学で教壇に立つと、驚くのが、殆んどの学生は、ノートや参考書を広げて、片手でスマートフォンをいじっているんですよ。不思議に思い、何をしているのか、と声を掛けると、先生の言っている言葉で分からないことを調べているんだ、と答えるんです。調べるの速いね、と驚いたものですが、でも、そうして得た答えは何も残らないでしょう、と言うと、うん、と頷きます。これは、教師になってから、懇意にする文学の先生に戴いた言葉ですが、疑問を胸に溜めておく時間が長ければ長いだけ、研究の発見や、ものを生み出す力になることがあるんです。現代の社会は、情報を手軽に手に出来る利便性に優れます。しかし反面、そういった、発想やエネルギーの源泉を奪っている側面もありますね。
いつごろから本格的に文学に傾倒を
当初は、その頃丁度盛りあがりを見せていた、フランスの現代思想をやりたかったんです。それで実際にミシェル・フーコーの研究もしていました。ところが、知れば知るほど、知的に洗練されすぎているところが、自分には向いていない、と思うようになりました。昔から、自分を評する他人の言葉に「土臭さがある」という表現を見つけひっかかっていたので、なおさらでした。ある時、お世話になった先生から、カリブ海の文学が今面白いよ、と聞きました。フランスで話題になっている、と言うんです。早速、フランスから何冊かの原書を取り寄せ読んでみることにしました。
カリブ海に浮かぶ島々と植民地の歴史を記す文学は魅力的でしたが、中でもとりわけ、フランスの海外県、マルティニークには、何かとても懐かしさを感じました。登場するのは暢気で陽気な町の人びと、しかし島土着の文化が、みるみるグローバル化の波に飲まれると、やがて居場所を失っていきます。一読して、これは僕の知る世界だ! そう確信しました。オラリティ(話し聞く力)を基調にする文化。自分も、子供の頃から、多くの知識を人づてに語りを通して得た覚えがあります。親近性も後を押し、こっちの世界を勉強したい、すぐにそう思うようになりました。同時に、故郷大分の蒲江を舞台に小説を書こう、そう決めたんです。