奥寺 康彦さん(横浜FC取締役会長)
高校はサッカー特待生ですね
それまでは担任から「サッカーばかりしていてもしょうがないだから、もう少し勉強していい公立高校に進学しなさい」と言われて、僕も担任の言う通りだ、と思ってサッカーの強い公立高校を探していたんですよ。そんな時ですね顧問に呼ばれて、サッカーを強くしたい高校がらオファーがある、と声を掛けられたのは。結局同じ中学から5人同じ高校へ行って、またサッカーをすることになったんですよ。それからは毎日サッカーばかりでしたね。県で優勝したり、インターハイに出て、高校も強いチームでしたから。丁度高校生のときには、メキシコオリンピックがあって、サッカーが盛り上がって、当然僕もサッカー選手に憧れましたね。目標が決まれば練習にも一層熱が入って、よく練習ばかりしていましたよ。
そして次のステップを踏むことになるんですね
僕は思うんだけど、人は伸びるときにいかにより伸びることのできる環境に居ることができかでその人の能力の開花が決まってしまうと思うんですね。その環境に入ることができないと才能があっても埋もれてしまう。昔はその環境に入ることができるのは、運みたいなものが左右したけど、いまはねサッカーもメジャーなスポーツになって、才能が埋もれないような目配りがされているけど、僕の時代はそうじゃなかったよね。だからそういう意味では、僕は古川電工という日本リーグに加盟しているところへ就職できたのは良かったと思うよ。
大学への進路は考えませんでしたか?
誘いはありましたよ。でも勉強はそんなに好きではなかったし、サッカーをしながら学業をまっとうすることができるか、自分では自信がなかったのね。その選択が良かった。会社からサッカーでブラジルへ勉強の機会をもらうことができましたからね。それからですね、僕はブラジルでどんどん成長していくことができたんですよ。もし、日本リーグに入っていないチームでプレーしていたら、ユースで日本代表になることもなかったと思いますしね。
当時、世界最高峰のリーグといわれたブンデスリーガで日本人初の選手として活躍を
迷いましたよ。前例があれば判断もしやすいけど、何せ初めてなんですからね。僕を評価してくれたのは嬉しいけど、成功するかどうか分からないしね。それに当時僕には既に妻子がいましたからね。でも監督の情熱が凄かったので、そこまで言ってくれるのなら、トライしてみようと行くことになったんです。でも言葉ではだいぶ苦労がありましたね。学校で初級だけはやって後は身振り手振りでやるんです。まあサッカーという目的があったから苦労があってもやれたんですね。これが目的もなくただブラリと行って暮らすのは相当大変だと思いますよ。ドイツといってもリーグのあるところは日本人学校なんてないわけです。でも子どもは現地の学校で伸び伸び生活できて良かったと思いますね。生活面でも僕は朝練習に行って昼には昼食に帰ってくる。日本にいるときよりも家族と一緒の時間が断然多いですからね。ドイツでは3つのクラブで9年間プレーしていましたからね。それは苦しいこともありましたよ、監督が変わると干されたりしてね、でもまあ異席してまたプレーするんですけどね。