谷川 俊太郎さん(詩人)
将来の見えづらい時期だったのでは
全然見えていなかったですね。大学院も出ていないし、良い詩を書こうとか、良い詩人になろうというよりも、食べていけるかの心配の方が大きかった。それで詩を書き始めた直後くらいから、同世代で芸大にいっている作曲家たちと歌を作ったりしていました。詩よりは歌のほうがまだ売れるだろうと考えたんですね。詩人は原則儲かりませんから当初は親の援助を受ける日々もありましたが、『文学界』に掲載された後に少しずつ、随筆等の物を書く注文が来るようになり、なんとか自分で食べていけるようになっていきましたね。
詩以外にも様々なジャンルで活躍されています
当時民間放送がスタートしたばかりで、詩人にラジオドラマの単発物の脚本依頼があったんですよ。そういう仕事を請けて生活をしていった訳ですが、師と仰ぐ三好達治さんにも、初めての仕事はとにかく受けてみろと言われましてね。僕はそれを信条に、記録映画の脚本など様々なジャンルを手掛け、そこから仕事の世界が広がっていったんですね。
初めて飛び込む仕事に不安は
もちろんあるにはありましたが、やってみなければ自分に向いているかどうかもわかりませんからね。また、別の理由として当時の詩壇は狭苦しくて好きじゃなかったということもありました。例えばマスメディアに注文されて詩を書くなんてもってのほかだ、といった具合でね。僕自身は詩を書き始めた当時から、もっと色んな分野に詩を浸透させていかなければいけないという考え方を持っていたんですよ。折しも日本は高度経済成長期で、若者は貧乏な中にも何か可能性を感じていた時代でした。そんな中で芸術に生きる人たちは横のつながりを強め、何かやってやるという強い気運がありましたね。