• 十代の地図帳
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奥寺 康彦さん(横浜FC取締役会長)

 奥寺康彦さんは日本人初のプロサッカー選手である。まだ日本にプロリーグがない時代、熱烈なオファーを受け、渡独、数々のアジア記録を塗り替え、大きな足跡を残した。帰国後は、Jリーグの立ち上げに尽力、今は後進の育成に力を注いでいる。開拓者にその精神の在り方を尋ね、十代の地図を開いた。

小学4年まで秋田で?

 昔は鹿角郡といわれたところでね、温泉街ではあるんだけど、凄く寂れたところ(笑)、町には旅館もひとつかふたつしかないんですよ、そこに小4までいました。50年前日本中はどこもそうだったと思うけど貧しくてね。僕の家も物心ついたころには母親は旅館で働くために家にいなかった。でも祖父、祖母、父、妹の4人で暮らしていたので淋しさを感じることはなかったんです。そのころは学校から帰ると祖母の駄菓子を手伝ったり、水道がなかったので近くに湧き水を天秤で汲みにいったり、子どものすることもいろいろありましたね。酒の好きな親父を飲み屋に向えに行くのも僕、それはとても嫌でしたね。

田舎から小4で都会に転校は厳しかったのでは?

 親父の会社が倒産してやむなく横浜に来たんです。僕はどちらかというと引っ込み思案で内向的な性格なんで、それは友達になるまではなかなか大変でしたよ。なにしろ自分から人に話し掛けるわけではないから時間がかかったんですよ。だから1日だけ登校拒否児になった経験があるんですよ(笑)。転校してきたもののどうしても学校に行くのが嫌で、家が会社の寮の中にあったので、隠れるところがたくさんあるわけですよ、だからそこに潜んでいたんです。それで大騒ぎになってしまってね。僕もみんなに心配を掛けてしまったことを深く反省したんです。それからは大丈夫でしたけどね。学校に行けば誰かが意地悪をするわけではないんですよ。ただ田舎の学校より勉強が進んでいたり、特に算数なんて分からなくて困るわけです。そのカルチャーショックが大きかったんですね。

子どものころから運動神経は良かったんですか?

 いや、外でよくドッチボールや野球をして遊んではいたけど、特に良いということはなかったですよ。足も速くもなかったですしね。全然ですね(笑)。

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