「わたしのマンスリー日記」第18回 幸福な死――「野菊の墓」

 第16回「生き地獄を見た」、第17回「死なないでください!」に続くコロナ入院奮闘日記第3弾です。

「幸福な死」

 苦しみにあえぎながら、私はずっと「死」について考えていました。死ぬこと自体は怖くはありません。この世の生きとし生ける全てのものに寿命があり、いつの日か死を迎えるというのは、避けられない宿命だからです。どんなえらい政治家であっても、どんな絶世の美女であっても、あれほど強かったアントニオ猪木でも死を迎える。無常ではありますが、見方を変えればこんな公平な原理はありません。それは時が万物を公平に流していくのと同じ原理です。この原理には何人も逆らえないのです。
 生命の誕生はいわば「所与」であって、本人の責任を問えるものではありません。なぜ日本に生まれたか、なぜ男・女の子として生まれたかを問うことは所詮無意味なのです。
 それに対して、死については責任が問えるのです。他人がどうこう問うという意味ではなく、自らの意志で生と死について問うことができるという意味です。自分の人生はこれで良かったのだろうか、やり残したことはないか、家族始め社会の人々に何を残せたのだろうか、そして死後どこに行くのだろう、等々自問することは無限に広がっていきます。
 「死ぬことはどう生きるかということ・生きるとはどう死ぬかということ」という命題は、このような自問自答を繰り返すことによってできたと言っていいでしょう。おそらく、宗教というものはこのような自問自答の苦闘を経て誕生したものだと思います。
 人にとって多様な死に方があるとしたら、どのような死が望ましいのか考えました。得た結論は「幸福な死」でした。これはすべての宗教が示しているように思えます。浄土宗でいう極楽浄土のイデーはまさにその象徴でしょうし、キリスト教で「天に召される」というのも、「幸福な死」を示唆しているように思います。
 宗教学者でない私には明確な根拠に基づく論を展開することはできませんが、実は「幸福な死」のアイデアはある小説を思い出すことによって生まれたものでした。その小説とは、千葉県の生んだアララギ派の歌人・伊藤左千夫の書いた『野菊の墓』という小作品でした。

伊藤左千夫生家

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