「わたしのマンスリー日記」第11回 帰郷――「われは山の子」
本堂でご祈祷を済ませた後隣の広間で谷川家の関係者の会食会となりました。私は5人兄弟姉妹の4番目ですが、私を除けばそれぞれに頑張って生活を送っています。私はしゃべれないので、亡き父母と二人の姉、兄、妹それぞれに思い出を綴り、妻に代読してもらいました。父母についての思い出の一部を紹介します。
父の思い出は何と言っても小学校5年生の夏休みに富山に連れて行ってもらったことです。なぜ私を連れて行ったのかはついにわからずじまいでしたが、今考えるとこの旅はその後の私の人生を決定づけるほどの意味を持っていました。
初めて県外に出た旅でしたが、様々な経験をさせてもらいました。直江津で初めて海を見、富山県に入る一歩手前の「親不知駅」では、「親不知」の由来について話してくれました。海岸沿いの街道を歩くのはとても危険で、親子であることを忘れるほどだったことからこの地名がつけられたとのことでした。この話を聞いて地名の面白さを知ったことが、私の研究のきっかけであったことは事実です。
富山では父の弟に当たる平井の叔父さんの家に泊めてもらいましたが、ここでも貴重な体験をしました。まず出されたお茶が苦かったこと。信州の「がぷ茶」しか知らない私には一種の驚きでした。もう一つはイカの刺身をいただいたことです。信州の山の中に育った私は刺身というのは生のマグロのことだと思い込んでいました。イカの刺身を出されて初めて、それまで抱いていた観念が間違っていたことに気づきました。これは小学校5年生にとっては貴重な学習でした。
富山から金沢を経て名古屋の都会を垣間見、木曽を通って帰った1週間に渡ったこの旅は間違いなく私を旅好き人間にしてくれました。
次に母についての思い出です。一番の思い出は中1の時反抗して家を飛び出した私を追いかけて、北沢に向かう道端にあった木の下で私を必死になだめ、説得してくれた母の姿でした。今も思い出すと涙が止まりません
意地を張る私に母は「母ちゃん、もう行くね」と言いました。母は文字通り、自分は家に帰るよと言ったのだと思います。でも私の耳には「母ちゃんも行くね」と聞こえたのです。私の勘違いだったのですが、母ちゃんは自分と一緒に行ってくれると思ったのです。
その瞬間涙が溢れ、私は立ったまま泣き崩れました。母の限りない愛に負けた一瞬でした。