「わたしのマンスリー日記」第13回 人は人を幸せにできる! きっと
しゃべれなくなる恐怖
その間放送大学の授業の他、いくつかの大きな講演もこなしましたので、しゃべれなくなるという恐怖の進行は歩けなくなる症状の進行より遅かったことは事実です。現に同年11月に北海道釧路市で開催されたオープンカレッジでは講座のナビを務めたくらいですから。
ところが、翌19年1月の末、決定的な事態を招いてしまいました。埼玉県川口市に講演に行った時のことです。その日も川口駅のホームをまともに歩ける状態ではありませんでしたが、事態はその直後起こりました。
その日の講演は講演というよりも、川口市の生活科サークルを対象にした談話会のようなものですが、すでに30年も続けてきた会でした。会場まで車で運んでもらって、いざこれから講演となったその時のことでした。自分ではしゃべっているつもりでしたが、「声が出ていない、聞こえない」という声が会場から挙がったのです。自分では何が起こったのか皆目わかりませんでしたが、万事休す……。用意してくれたタクシーに乗り込むのが精一杯でした。
それ以降は外出を控えていたのですが、いくら寝ても寝ても寝足りず妙な夢を見るようになり、起きていても仮面ライダーの敵のショッカーが幻覚となって襲ってきました。でもその当時はそれが死の前兆だとは気づきませんでした。
ALSの宣告
そしてついに運命の日を迎えました。19年3月22日の深夜のことでした。私が呼吸していないことに妻が気づき、救急車を呼び千葉大附属病院のICUに搬送されました。あと15分遅れたら助からなかっただろうと後で言われました。私はあの時確かに死んだのだと思います。少なくとも、死ぬとはこういうことなのだろうなと思ったことは事実です。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)だと宣告されたのは5月30日のことでした。担当医師数名が病室に来られ、病名とこれは現代医学では治療不能と告げられた時は、妻も私も1年以上苦しんできた病名が判明したことでホッとし、むしろ笑顔で聴いていました。それほど、それまでの不安と恐怖が強かったということです。
しかし、悲しみと絶望感はすぐ襲ってきました。自分に残された命はあと半年? 1年? 当然のことですが、それまでの72年間の人生を振り返りました。力及ばないこともあったけれど、与えられた状況の中では精一杯生きてきた——そういう自負はありました。妻あてに文字盤にこう書きました。(当時はまだペンを握れたのです)
「これまでずいぶんケンカもしてきたけれど、ここまでやってこられたのはお前の協力があったからだ。ありがとう。我が人生に悔いなし!」
妻の手を握ったその上に涙がこぼれました。悔しさと絶望と感謝の気持が入り混じった涙でした。それをドアの陰で見ていた次男の嫁が、「お母さん、悲しい時は泣きましょう」という名言をその夜LINEで送ってくれました。これ以上の慰みの言葉はありません。