「わたしのマンスリー日記」第18回 幸福な死――「野菊の墓」
「野菊が好き」
二人が手を取り合って山の畑に行った時のくだりに、こんな美しい描写があります。
「まァ政夫さんは何をしてたの。私びッくりして……まァ綺麗な野菊。政夫さん、私に半分おくれッたら、私はほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の花の生まれ返りよ。野菊の花を見ると身震いの出るほど、好(この、ルビ)もしいの。どうしてこうなのかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
二人は分けてやった半分の顔を押しあてて嬉しがった。二人は歩き出す。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さァどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
この年頃には誰でも経験する淡い恋心の一コマですが、今から考えると決定的に異なる時代背景があったことを指摘しておかなくてはなりません。この作品は明治30(1897)年に発表されたものですが、当時は「一五で姉やは嫁にゆき」の歌のように、17歳になった民子は十分嫁入りの適齢期に達していたことが一つ。そして、もう一つは当時は年下の嫁を迎えるのが常識だったということです。
このような事情から、二人は互いに思いを残しながら別々の道を歩むことになります。政夫は千葉(市)の千葉中学校に進み、民子は市川に嫁入りすることになったのです。
学校に入るために千葉に立つ前日に、政夫は民子に手紙を書き残しました。これが最後のメッセージとなってしまいました。