「わたしのマンスリー日記」 第3回 「壁のないコンサート」

 今私は支援を受ける立場にあります。医師・看護師を始め十数名のヘルパーさんたち、さらにリハビリの専門家など数十名の関係者の皆さんによって私の命は支えられています。でも支えられて生きているだけでいいとは思いません。どんな苦境に立たされてもできることは必ずある! そう私は信じています。
 苦境に立つ私たち一人ひとりが「支えられる・支える」という関係の中で生きていける社会を実現させましょう。私の3.11チャリティーコンサートのバケツ募金隊への参加はそのような思いの小さな小さなささやかなトライヤルでした。
 今回のチャリティーコンサートは、当事者である私たちの間にも存在している「壁」を除いて「連帯」することの必要性と重要性を教えてくれました。

石巻への思い
 
 当日お渡しした小文とは毎日新聞デジタルの「ソーシャルアクションラボ」に連載している「水害と地名の深~い関係」の第37回目の記事「津波から生き延びた『中瀬』に建つ石ノ森萬画館の奇跡~宮城県石巻市~」(2023年1月)を指しています。
 宮城県石巻市に石ノ森章太郎萬画館がオープンしたのは2001年7月でしたが、それからちょうど10年後に3.11の津波に襲われました。記事の一部を抜粋して紹介します。

「しかし悲劇は突如襲った。2011(平成13)年3月11日午後2時46分、東日本を巨大地震が襲った。同時刻私は名古屋本執筆の取材のために名古屋の徳川美術館にいたが、立っていられないほどの揺れの上に館内のカーテンが左右に大きく揺れているのを見て館外に逃れた。そしてホテルに戻ってテレビをつけてみると、まさにこの世のものとは思えない嘘のような映像が次々と目に飛び込んできた。ただただ驚くだけで言葉を失った。東北地方の太平洋沿いの諸都市はどこも壊滅的な被害を受けたが、中でも石巻市の被害は甚大だった。市民グループの代表だった阿部紀代子さんは「地獄でした…」と語ったのみで、あとは口をつぐんだ。「石巻での死者・行方不明者約4千人のうち地震で亡くなったのはたった一人で、あとはすべて津波でした」とも。
 悲しみのどん底に突き落とされながらも石巻の仲間たちは懸命に復興に取り組み、2012(平成14)年11月17日萬画館のリオープニングにこぎつけ、さらに翌2013(平成15)年3月23日完全再開を果たした。その復活を担った一人木村仁さんが隣町の女川町に案内してくれ「ここが我が家のあった場所です」とつぶやいて指さした先には、壊れた石垣以外何もなかった。その残酷さを目の当たりにして絶句した。」

 控えめなこの言葉のうちにどれだけの悲しみや苦しみが込められているか測り知ることができません。でもALSという難病と闘う中で少しは寄り添えるようになったように思います。3.11チャリティーコンサート ありがとう!

                       谷川彰英

谷川 彰英 たにかわ あきひで 1945年長野県松本市生まれ。作家。教育学者。筑波大学名誉教授。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。千葉大学助教授を経て筑波大学教授。国立大学の法人化に伴って筑波大学理事・副学長に就任。退職後は自由な地名作家として数多くの地名本を出版。2018年2月体調を崩し翌19年5月難病のALSと診断される。だが難病に負けじと執筆活動を継続。ALS宣告後の著作に『ALSを生きる いつでも夢を追いかけていた』(2020年)『日本列島 地名の謎を解く』(2021年)『夢はつながる できることは必ずある!-ALSに勝つ!』(いずれも東京書籍刊)がある。

(モルゲンWEB2023)

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