「わたしのマンスリー日記」第19回「どんな難病でも私たちは諦めない!(その1)さかもと未明さんとの対談SP
【谷川】鉛筆を拾った時の情景は想像を絶しますね。ALSの場合は痛みで苦しむことは副次的で、メインは呼吸困難によるものですが、呼吸困難に陥った時の苦しさはこのまま死ぬんじゃないかと思ってしまうほどの恐怖です。
一般に難病と言ってもさまざまでしょうが、ALSの場合は10万人に1人か2人の確率でしか罹らないと言われています。膠原病の場合はいかがですか。
【未明】10万人に5人くらいの難病ということですが、見つからないでいる人を含めると、もう少し多い気がします。私も最初は、「高原の病気? 自分は登山とかしませんが」と質問するほど無知でした。
【谷川】笑える話ですね。そんな大変な難病を抱えながら歌手として画家として大活躍ですが、ここに至るまでの体験を聞かせてください。
【未明】私はこの本のタイトルにあるように、「残りの命と時間を、誰かの役にたつように使いたい」という意識の改革によって、力をいただいたと思います。これは限界まで行かないとなかなか自覚できないんですが、人間、自分のためよりも、誰かのための方が力を出せるんですよ。本当に、偽善でもいい子ぶっているのでもなく(笑)。母親は、例えば子どもが地震でつぶれた柱の下にいたら、普段できないような力で柱を動かそうとすると思いますし、実際にできたりするんじゃないでしょうか。いわゆる「火事場の馬鹿力」ですよね。
私は、気持ちが変わってからいつも辛い時、「神様、どうぞ私に少しだけ時間と力をください。もし私の志が間違っていなければ、それを成し遂げるまでの寿命をお授けください」と祈っていました。命が短いと思った時に立てた目標は、「お世話になっている拉致被害者家族の横田滋さん・早紀江さんに何か恩返しがしたい。めぐみさんが帰ってくるように祈る歌を作って、世界に向けて発信したい」でした。その時は水の入ったコップを持ち上げることもできなかったので、歌しかできることが思いつかなかったんですね。でも、私が歌詞を作るとピアニストの友人の遠藤征志さんが曲を作ってくれました。歌って、更に世界に届けたいと考えていると、バチカンでの震災復興コンサートのプロデューサーの榛葉昌寛さんに出会い、何とバチカンの聖堂でオーケストラで歌っていいと言われたんです。信じられませんでしたが、何と三枝成彰先生がオーケストラの譜面を書いてくださり、ロッシーニ歌劇場付属管弦楽団の演奏で2018年には聖マリア・マッジョーレ大聖堂、2024年には聖パオロ大聖堂で歌わせていただけました。
*以下次回に続く。本対談は9月発売予定の『ALS 苦しみの壁を超えてー利他の心で生かされ生かす』(明石書店)の終章として、企画構成されたものです。
谷川 彰英 たにかわ あきひで 1945年長野県松本市生まれ。作家。教育学者。筑波大学名誉教授。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。千葉大学助教授を経て筑波大学教授。国立大学の法人化に伴って筑波大学理事・副学長に就任。退職後は自由な地名作家として数多くの地名本を出版。2018年2月体調を崩し翌19年5月難病のALSと診断される。だが難病に負けじと執筆活動を継続。ALS宣告後の著作に『ALSを生きる いつでも夢を追いかけていた』(2020年)『日本列島 地名の謎を解く』(2021年)『夢はつながる できることは必ずある!-ALSに勝つ!』(いずれも東京書籍刊)がある。
(モルゲンWEB2024)