青い海と空のみちのく八戸から・波動はるかに 第10回80―80(エイティ-エイティ)

 しかし、この書簡で私は漸く父親が実在した人間であったと実感を掴み、同時にその他資料と突き合わせて頭の中に母と父の物語を編むことができた。おそらく、父と母は当時では少数派の当人同士が好きあって結婚に至り、二人の子をなしたカップルだった。父の兵役体験は昭和9年(1934)の初徴兵で満州派遣に始まり、2年後一旦解除されるも1年も空かずして再び中国上海戦線に送られる。上海から南京、武漢、重慶近くまで中国戦争の最前線で昭和15年の秋まで3年戦い、ようやく除隊になる。以降昭和19年8月(1944)まで3年と8月の蜜月生活を送る。同月赤紙招集でフィリピン戦線に派遣、消息はそのまま23年の戦死公報まで不明ということとなる。1914(T13)・15年生まれの二人の20代は昭和の戦争の時代にぴったり重なっていて、まさに不運な戦中派世代というほかない。その不運のおこぼれを飲んでしまった私も時代を嘆き恨めしく思うだけではなく、何かに向けて怒りをぶつける資格がある筈である。

 太平洋の島々の戦いから南アジア、フィリッピンに続くほぼ全滅作戦、民間人を巻き込んだ沖縄戦、東京をはじめとした空爆による無差別都市攻撃、最後に広島・長崎、死者350万というが、所謂関連死を含めれば4~500万という数字になり、加えて負傷者はどれほどいるだろう。それに加害による死傷者を数えることも忘れてはなるまい。昭和の15年戦争に生き延びた者たちも、その人の数だけ各々様々な生ききる試練・体験を強いられたのである。

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