
対話的探究への招待――哲学すること、対話すること
それは文字通り、「対話」と「探究」という二つの要素から成ります。そして両者は「問い」によって結び合わされます。
「対話」は広く捉えれば、言語的コミュニケーションの一種です。言語的コミュニケーションでは、相手との言葉のやりとりを通して、なにかが共有され、共通のもの(common)になります。なにを共有するかに応じて、コミュニケーションは多様なかたちをとります。食事を分かち合う共食というコミュニケーションもあれば、情報、課題・苦悩、アイディア・思想を共有するコミュニケーションもあるでしょう。問いが共有されるとき、「対話的探究」が成立します。
他方、探究には「問い」が欠かせません。探究は、問いに導かれて進められます。共同で探究が進められる場合には、探究する者のあいだで「問い」が共有される必要があります。共通の問いを囲み、相手の見解に耳を傾けきながら、共同作業として探究を進める。それが「対話的探究」の営みにほかなりません。
ここで注意しておきたいことがあります。それは対話的探究の参加者が「探究者」であるということです。答えを求めており、しかもそれを手にしていないということです。もしだれかがすでに答えを手にしているならば、問いは共有されず、共同の探究も成立しません。答えを手にする者と手にしていない者とのあいだに、教える-教えられるという関係が生まれるだけです。問いが問いとして共に引き受けられないかぎり、共同の探究は始まりません。
とはいえわたしたちの世界には、無数といってよいほど、多くの問いがあります。わたしたちはそのすべてを引き受けて、生きているわけではありません。そもそもそのようなことは不可能でしょう。探究する問いとそうでない問いとを区別し、自分が引き受ける問いを選別しながら、わたしたちは生を営んでいるのです。ならばわたしたちは、どのような問いを引き受けるのか。自分の生にとって切実であり、それゆえ素通りできない問いでしょう。そのような問いと出会うとき、わたしたちは、まるで問いそのものに呼びとめられるように、立ちどまってしまいます。切実な問いは、その探究者に真剣な態度を呼び起こすでしょうし、そのような態度を要求するでしょう。
これこそ「哲学」という営みの原初的な経験です。「哲学」という日本語は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した洋学者、西周(にしあまね)5による造語です。最終的に「哲学」という訳語を採用したものの、西は当初「希哲学」「希賢学」という訳語を使用していました。
5 西周は1829(文教12)年に、石見国津和野の藩医の子として生まれた。青少年期に朱子学や荻生徂徠の思想を学んだが、ペリー来航(1853年)を機に、洋楽を学ぶ必要を痛感し、脱藩して江戸へ出た。幕府の蛮書調所を経て、オランダのライデン大学へ留学した。帰国後は、幕府の開成所で教授を務め、明治政府では兵部省(陸軍省・海軍省の前身)で大学学制取調掛と翻訳局を兼務した。また森有礼や福沢諭吉、西村茂樹らとともに明六社を創立した。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳と紹介に尽力し、近代日本において哲学の基礎を築くことに貢献した。「哲学」のほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など多くの訳語を考案した。