
対話的探究への招待――哲学すること、対話すること
ですから一つの経験というのは、たえず深まるのです。それが深まってくると、今度はその深まった意味において、私たちはその言葉をどうしても使いたくなります。私たちがその言葉を使うとき、そのような深まった現実的な意味をもって、その言葉を使うわけです。これが私たちの表現を正確にするわけです。そうでないと、どんなに偉そうな言葉を使っても、それは表現ではなくて単に空しくひびく音響にすぎないわけです。ほんとうに深い定義、そしてそれがたえず深まり変貌するということ、これが私のもっている経験という言葉の意味です。2
「死」の経験に導かれて、筆者は、死をどう受けとめ、いかに生きるかという大きな問いの前に立たされることになりました。死とともに生きるという探究の歩みが始まったのです。そして数年間の紆余曲折と試行錯誤を重ねた後、「哲学」と出会いました。「哲学することとは死の練習である」3というプラトンの言葉に惹かれて、哲学の道を歩み始めました。
「対話」と出会ったのは、それから24年後、スウェーデンで生活したときです。「対話」という言葉は、それ以前から知っていましたが、「ああ、これが対話なのか!」という経験をしたのです。スウェーデンの地で、そのような経験をいくつか重ね、それを通して「深まった現実的な意味」で「対話」という言葉を使うようになりました。帰国後は、その経験を人びとと分ち合い、さらに深めるため、対話実践に乗り出しました。
1年間の準備期間を経て、静岡市内で2013年に哲学カフェを、2015年に死生学カフェを立ち上げました。哲学カフェは2019年に幕を下ろしました(通算33回)が、死生学カフェは現在も続けています(2025年4月現在、55回)。死生学カフェは2023年から福岡市でも開催されています。2025年6月には、福島市内でも死生学カフェが始まります。また2022年には伊豆の松崎町で、風待ちカフェを始めました4。「風待ち港」としての伝統をもつ松崎町を望みながら、それぞれの人生の「風待ち」について語り、聴くという試みです。2023年からは、三島市で対話・ファシリテーション塾を開催しています。日本各地で対話を実践する仲間が年に一度集まり、対話とそのファシリテーション(場づくりと進行)について学びあいます。そのほかにも、さまざまな団体・機関から依頼を受けて、各地で対話実践を試みています。大学や看護学校の担当授業も、すべて対話形式で進めています。対話ファシリテーションの経験は、およそ1000回に達します。
今回の連載の目的は、読者を「対話的探究」へ招待することにあります。筆者自身の「経験」に立ち、執筆していこうと思います。「対話的探究」とは、対話を通した探究をいいます。連載を読み終えたとき、あなたは基礎理論を体得し、実践の足場を固めて、ご自身で対話的探究を始められるようになっているはずです。
「対話的探究」とはどのようなものか、あらかじめ輪郭を描いておくことにしましょう。
2 同書、63頁。ただし表記は一部変えてある。
3 プラトン「パイドン」松永雄二訳、『プラトン全集1』所収、岩波書店、1975年、
235頁(81a1-2)
4 風待ちカフェウェブサイト:https://kazemachi-cafe.studio.site/