「わたしのマンスリー日記」第26回 亡き妻・憲子への想い(その1)・・・衝撃

◎谷川先生
 お通夜の日、先生と奥様に直接ご挨拶ができたのは良かったのですが、こちらの感情ばかり勝手に押し付けたことを、後から反省していました。先生の潤んだ目の奥から、到底私には思い至らない言葉をたくさん発しておられたのだろうと思いますが、さぞもどかしかったことと存じます。
 映像で流れていた、若かりし日から最近までのスナップ写真の中の奥様も
花に抱かれて横たわる奥様も、本当にお綺麗でした。大切な先生に尽くし、共に歩み、その愛を受けられたこと、
 奥様は恨んでなんかいらっしゃらないです。絶対に! 女房冥利に尽き、悔いなく生ききられたご生涯ではなかったかと拝察いたします。
僭越ながら、寺﨑先生にご連絡させていただいた際は、
「なんという悲報!」と、
寺﨑先生ご自身がお体の不自由がある中で、「すぐにでも飛んでいきたい思い」と心配されていました。
 ご挨拶の中の、「でも負けません」の言葉は、もしかしたら今はまだ、先生がご自身を鼓舞するお言葉だったかもしれません。でも、奥様は「よしよし!」と目を細めていらっしゃりそうですし、この悲報に言葉をなくしている誰もが、願った言葉だと思います。青山芳已様(株式会社学習調査エデュフロント常務取締役)
 
 お通夜の折青山さんがどんな対応をされたのかは記憶が定かではありません。
 でも私の胸中では自分が何を訴えていいのか皆目わかりませんでした。悲しみをシェアしてくれる人が来てくれただけでありがたく、ただそれだけで溢れる涙を抑えることができませんでした。
 憲子が私を恨んでいるとは思いません。それどころか特に大学院進学を勧めたことについては折に触れて「私の人生を変えた。感謝している」と言っていました。
 私はどちらかと言えば表に立って先頭を切って突っ走るタイプですが、彼女は引っ込み思案で表に出るのが苦手だったようです。小学校の時学級委員に選ばれたのですが、泣いて断ったと言っていました。
 憲子と出会ったのは私が東大と日本女子大に声をかけて組織した「教育学を学ぶ会」だったのですが、ある時「自治会の委員長に選ばれそうなんだけどうしたらいい?」と相談を持ち掛けられたことがありました。
 私自身は当時の全学連には一歩距離を置いていたのですが、「選ばれたらやったらいい」と背中を押してあげました。その結果、日本女子大学自治会委員長・春山(旧姓)憲子が誕生したのでした。
 さらに憲子に生きる活路を広げたのは、学習塾で数学を教えるようになったことです。私は学部2年の時ある人に頼まれて、東京品川区に中学生を対象にした「ABA教育研究会」という塾を立ち上げました。実質は学習塾でしたが、理念は慶應義塾や松下村塾を目指していました(笑)。
 私は英語と国語を教えたのですが、憲子には数学を担当してもらいました。初めは「人前で教えるなんて……」と躊躇していましたが、実際教えてみたら人気は上々。しっかり「数学の春山先生」の評価は定着していきました。中でも生まれたばかりの長男を背負っての数学の授業は、特に女子生徒に感銘を与えていました。
 この塾講師の経験が憲子を大きく変えたことは疑いないところです。この経験を踏まえて大学院進学を勧めたのです。
 青山さんのメッセージに登場する寺﨑昌男先生は東京大学名誉教授で、日本教育学会の会長を務められた大御所です。先生との出会いは40数年前に東京書籍の小学校社会科教科書の編集に携わるようになったことでした。先生の専門は日本教育史の中でも高等教育史で、本来は社会科教育とは直接関係ないお立場でしたが、現場の教員の声に真摯に耳を傾けられて導いていただきました。
 それ以降生活科の教科書の編集も共にし、社会科と生活科の編集代表の任務を寺﨑先生から引き継ぐことになりました。さらに中央教育研究所(中研)理事長の職も寺﨑先生の後を継ぐことになり、ALSで倒れるまで務めました。
 考えてみると、寺﨑先生とは年の離れた兄弟のような関係で、ALS罹患後も常に励ましをいただいていました。ありがとうございました。

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