「わたしのマンスリー日記」第26回 亡き妻・憲子への想い(その1)・・・衝撃

◎本当に、神様は、先生にどれだけの試練を与えたら気が済むのでしょうか……。先生の会葬御礼のご挨拶文、読んでいて涙が溢れてきました。と同時に、憲子さんがご自分の人生を全うされたことも、よくわかりました。
人にはそれぞれ、生まれながらの役割があるのだろうと、この歳になるとつくづく思います。
 憲子さんは、谷川先生のサポート、障害児のサポート、きっと人をサポートすることがこの世での役割だったのでしょう。素敵な人生を過ごされたことに、共感を覚えます。
 私自身、教育現場、ボランティア活動、家庭生活、なぜか様々な場面でサポートする側に回っていて、自分自身でそういう人生を選びとっているからです。憲子さんはサポート人生の偉大なる先輩です。
 憲子さんの不在を乗り越えて、失意の底から立ちあがろうとする先生の決意に、心が震えました。執筆活動が先生の命であるならば、私たち教え子は、先生の紡がれる文章を先生からの命のバトンとして、しっかり受け止めていきたいと思っています。
 そして、バトンリレーが出来るだけ長く続くことも願っています。

池田典代様(千葉大学の教え子、埼玉県公立小学校非常勤講師)

◎谷川先生へ
 池田さん(ハル)から送られてきた先生の「会葬御礼」を読みました。そこには、憲子さんの「お腹空いてない?」という愛の言葉から始まり、お二人の出会い、憲子さんが大学院へ行かれた経緯とその後の活動、先生への文句(当然ありますよね?)、お孫さんとピアノの連弾をする為に練習を始めたことなど、素敵な思い出が沢山したためられていました。
 そして、そこから先生の憲子さんへの心の底からの感謝と強い愛情が痛いくらい伝わってきました。ああ、とても深い深い絆で結ばれた信頼し合ってきたすばらしいご夫婦なんだなあと……
 だから、憲子さんはきっと「私の気持ちなんかちっともわかっていないんだから」と愚痴をこぼしながらも(そう言えるのも信頼関係あってこそです!)、プラットホームからずっと谷川先生を笑顔で見守っていると思います。10冊目の執筆を応援していると思います!
 だから、先生もALSなんかに負けないで、取り掛かったばかりの今の書籍を書き上げてください。いやいや、これからもALSなんか手玉に取って、さらに執筆を続けてください。
 私たちは、千葉大の先生の教え子として、千葉大のファンクラブ代表として、これからも先生の活動を全面的に応援し続けます!「推し」続けます。

小西玲子様(千葉大学の教え子、聖学院大学非常勤講師)

◎末延です
 先程、池田典代さんを通して、奥様の葬儀の際の谷川先生のご挨拶の文章を読ませていただきました。「憲子からもらった愛に報いるために、本書は必ず書き上げます。そして再会の駅のホームで手渡してきます」の言葉に涙が溢れて止まりませんでした。
 ALSを発症してからも、奥様の深い愛情と献身に支えられて闘病生活の中で執筆を続ける事だけで、運命の過酷さや辛さにやるせなさを感じていたのに……特に私達教え子は、お元気で活躍している長い年月を知っているからこそ、運命の過酷さが恨めしかったのに……その上、このような事は、全く受け入れられないでおります。
 私などは、先生の方がずっとずっと大変なのに、手紙の中で、夫の事業の経営難について愚痴さえこぼしていました。今思い返しても、恥ずかしい限りです。その手紙にも先生から丁寧なお返事が返ってきたのは、驚きでした。
 谷川先生にとっては、どんなに長い時間がかかったことか……本当にありがとうございました。執筆活動でお忙しい中だったのに、感謝してもしきれません。
 私は、お二人の姿に心から尊敬と憧れを抱いていました。奥様のこのような旅立ちは周りの人間ですら受け入れ難いです。今でも現実と全く思えないです。
 先生が執筆を止めないと書いている決意も辛さも、考えるだけで苦しいです。が、私達は先生の、その生きる姿勢を本当に尊敬しています。奥様の生きる姿勢も心から尊敬しております。それは永遠に変わりません。言葉がうまく出てきません。
 今の谷川先生にどんな言葉をお伝えしていいのかわかりませんが、先生ご夫婦をずっと尊敬しながら、目指して生きている者の存在を知らせたくて、メールしました。
末延真弓様(千葉大学の教え子、元千葉県公立中学校教諭、昨年度末退職

◎谷川彰英先生
 ご葬儀の挨拶を拝読しました。地獄の底にもさらに底があるのかと、怒りや呪いたい気持ちになります。初め、谷川先生が悲しみのあまり、思考も執筆も何もかも取り組む気持ちがなくなったとおっしゃっても、それは当然だと思いました。
 でも先生は、奥様の愛に報いるために企画中の10冊目の本を必ず書き上げると決心されたことに、驚くとともに、深く感動しました。
大澤容子様(千葉大学の教え子、元教育出版編集者)

 私は大学院博士課程を満期退学してすぐ助手に就任したのですが、半年後には千葉大学教育学部に講師として赴任することになりました。29歳の青年教師でした。2年後に助教授に昇任し、1986年に筑波大学に移籍するまで約12年にわたって同大にお世話になりました。
 この12年間は大学の教員として、研究者としてまさに青春そのものでした。教員間の人間関係では少し苦労しましたが、千葉大学は首都圏旧1期校と  あって全国から教員を目指す優秀な学生が集まっていました。
 私が主に担当したのは「社会科教材研究概説」という授業(講義)でした。この科目は小学校の教員免許状取得のための必修科目でしたので、千葉大学教育学部を卒業して小学校の教員になった人は例外なく私の授業を受講したことになります。それは10年近く続きました。
 この授業はその後の私の研究者の生き方を決定づけるほどの意味を持っていました。ライフワークになった地名研究もこの授業から始まりました。授業者が楽しく講義していたせいか、学生たちの反響も上々でした。特にこの授業のオプションとして企画した「地名ツアー」には毎回30名以上の学生が参加してくれ、ツアー後の懇親会では楽しく交流しました。
 そんなことを繰り返す中で、隠れ谷川ファンは増えていったようです。中でも国語科選修だった池田典代さん、小西玲子さん、末延真弓さん、大澤容子さんは大の仲良しで、ALS罹患後も我が家の屋上でBBQを楽しんだこともあります。
 池田さんの「私たち教え子は、先生の紡がれる文章を先生からの命のバトンとして、しっかり受け止めていきたい」、小西さんの「ALSなんか手玉に取って……」、末延さんの「奥様のこのような旅立ちは周りの人間ですら受け入れ難いです」、大澤さんの「地獄の底にもさらに底があるのかと、怒りや呪いたい気持ちになります。」という言葉を目にして涙が止まりませんでした。ありがとう!千葉大の教え子たち!

左から大澤、池田、末延、小西さん。(202401.28 エンジン01in市原)

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