「わたしのマンスリー日記」第26回 亡き妻・憲子への想い(その1)・・・衝撃

 世間的には私は大学の先生と見られてきました。確かに私の生涯はその大半を千葉大学と筑波大学の教員として過ごしました。千葉大学では主に小中学校の教員養成に携わると共に柳田国男研究から地名研究の道を開きました。筑波大学では高等学校の教員の他に大学の研究者の育成に力を尽くしました。非常勤講師としては10数年にわたって勤めた一橋大学を始め東京学芸大学、立教大学、大阪大学、茨城大学、福島大学等で教鞭を執りました。さらに筑波大学退職後は東京成徳大学の特任教授として教える機会を得ました。
 以上が私の教職歴ですが、これはいわば履歴書向きの表面的なものです。実はこれ以外に私には隠れた教職歴があるのです。これは千葉大学、筑波大学の教職経験に勝るとも劣らない経験でした。と言うよりもこの経験はその後の教育学者としての生き方の神髄を形作ったと言っても決して過言ではないのです。
 青山芳已さんからのメッセージへのコメントの中で、学部2年の時「ABA教育研究会」という塾を立ち上げたと述べました。この塾の創立者はS(仮)さんでした。Sさんとの出会いについても述べたいところですが、長くなるので省略します。私のことを「彰ちゃん」と呼んでくれる仲でした。
 1966年1月、2人で塾づくりに着手しました。品川区の旗の台の駅の近くに6畳と4畳版のアパートを借りて教室にしました。机も椅子もお手製でした。文字通りゼロからの出発でした。
 4月に入学(?)してきたのは中3になったばかりの13名。私が20歳、生徒は14歳でした。私は英語を教えたのですが、1~2か月程は生徒たちが帰った後Sさんとせんべい布団を敷いて生活を共にしました。
 この一風変わった塾の評判は瞬く間に広がり、品川区と大田区の中学校から生徒たちが殺到しました。評判を呼んだのは、単なる学習塾ではなく、浅はかな常識を超えてとことん中学生と対面したことでした。単なる成績向上ではなく、なぜ勉強をすることが必要なのか、学問は何のためにあるのか、人間は何のために生きるかを熱く語りました。時には徹夜で教えたこともあります。深夜おなかがすくと屋台で一緒にラーメンをすすりました。
 良き時代だったと言えばそれまでですが、そんなものをはるかに超えた真実がABAにはありました。それは一言で言えば「逃げない」ことでした。「勉強から逃げるな!」というのがSさんと私の共通の思いでした。そしてそれ以上に大事にしていたのは「中学生の現実から逃げるな!」という思いでした。
 塾生は350名に膨れ上がり、教員も20名を超えていました。その規模で毎年長野県の菅平高原で1週間にわたる合宿を行いました。ある年のこと、男子生徒のグループの喫煙が発覚したことがありました。全員を集めてそのことについて話し合うことになりました。規則をかざして制裁を加えるのは簡単なこと。しかしそんなことをしても何の解決にもならないことは自明でした。考えれば考えるほどわからなくなり、そのもどかしさのあまり、手元にあったお皿を床に投げつけて割ったことがありました。涙が頬を伝わりました。
 そんな塾でしたので、塾生たちはSさんと私には「先生」呼ばわりはせず、全てニックネームで通していました。Sさんはバンバン教えるので「バン」と呼ばれていました。一方の私は中2の女子生徒による命名によって「ヘベレケ」と呼ばれるようになりました。地名の命名でも他の多くの同意が得られないと成立しないと言われますが、まさに私の顔は酔っ払いの顔に見えたのでしょうね。
 それにしても後に千葉大学助教授、筑波大学教授・副学長になった人間が若い頃中学生から「ヘベレケ」と呼ばれていたなんて、マンガチックで愉快だと思いませんか。
 引間(和田)幸子さんは私と妻(春山先生)のABA最後の教え子で、3年ほど前我が家を訪ねてくれ、数十年ぶりの再会を果たしました。その時話題になったのが、ABAで同クラスで同じ三田高校に進んだ若林君の消息がわからないという話でした。
 憲子の死によって、従来T2倶楽部の会員に郵送していたT2通信を電子配信に切り替えることにしました。登録の際のコメントにこうありました。
「毎回楽しみにしています。生きるって、どういうことなんだろう、毎回考えさせられます。ヘベレケ、中学生の時から大好きでした‼️
 私はこう返しました。
 「和田へ 登録の際のメッセージ、思わず笑ってしまったけど嬉しかった。本に引用させてもらいます。ヘベレケ」
 ABAでの経験から会得したのは「実践哲学」とも言うべきものでした。教育学は実践の学と言われてきました。どんな高尚な理屈を振りかざしても、目の前にいる子どもを動かせないとしたら意味ありません。私は学問そのものも実践だと考えていますし、さらに言えば生きること自体が実践なのです。
 8年にわたるABAの経験の中で、中学生の現実から逃げたことは1度もありません。それが私の実践でした。だからALSからも逃げません。難病と闘いながら執筆活動を続けることが今の私の実践だと考えているからです。

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