対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話

 「哲学」とはなにか。「対話」とはなにか。両者はどのような関係にあるのか。第1部では、これらの問いに導かれて、探究を進めます。はじめに「哲学」について考察します(第1回)。次いで、筆者の「対話」との出会いの経験を共有します(第2回)。さらにそれを踏まえて「対話」を定義します(第3回)。最後に、「対話」と「哲学」の関係に光を投げかけて、「対話的探究」の姿を浮かびあがらせます(第4回)。

第1回 「哲学」を読み解く

 早いもので、あれから、もう30年ほど経ちます。大学院博士課程に在籍していた頃、同じ大学の工学研究科に所属する大学院生(博士課程)と立ち話をする機会がありました。彼はアフリカからの留学生でした。たどたどしい日本語で、彼の専門分野について紹介してくれました。
 筆者の専門分野についても尋ねられたので、「哲学」と日本語で答えました。「その材料で、どのように研究を進めているのか?その研究はなんの役に立つのか?」と、彼は問いを重ねました。「材料」という言葉にひっかかりを覚え、「役に立つ」という発想に違和感を抱いたものの、筆者は自分の研究内容について話しました。
 筆者はその頃、ハイデガーという哲学者の胸を借り、もっぱら彼のテキストを読むという仕方で研究を進めていました。そこでハイデガーの哲学思想について解説し、自分の研究テーマとアプローチについて話しました。すると、それを聴いていた彼の表情がにわかに曇り始めました。怪訝な表情さえ浮かべました。説明の仕方がまわりくどいのか、わかりにくいのかと戸惑い、焦りながらも、とにかく説明を続けました。
 説明し終わると、英語で思いもよらない言葉が返ってきました。「あなたの専門分野は鉄学(science of iron)ではないのか」。「違うよ、哲学(philosophy)だよ」と、驚きながらも答えました。英語で「フィロソフィー」と伝えたことで、筆者の研究分野が判然としたのでしょう。彼はそれ以上の関心をもたなかったようで、専門分野をめぐるやりとりはそこで終わりました。
 「哲学」という日本語は、日本社会に定着しています。日本だけでなく、東アジアの漢字文化圏で広く使用されています。しかし、よくよく考えてみると、「哲学」という言葉には、不明なところがあります。「生物学」や「法学」、「経済学」、「社会学」の場合、その名称を聞くだけで、それらが何に関する学であるか、イメージすることができます――「生物」や「法」、「経済」、「社会」に関する学であると。しかし「哲学」の場合、事情が異なります。「哲」にかかわる「学」だと説明されても、なお内容が判然としません。「哲学」という日本語は、どのようにして生まれたのか。どのような意味をもつのか。これらの問いに回答しながら、「哲学」という営みを浮かび上がらせていきましょう。

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