
対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話
西は津田の『性理論』に跋文ばつぶん(あとがき)を寄せ、そこで「希哲学ヒロソヒ」という訳語を提示しています。また津田とともに、オランダのライデン大学へ留学する直前には、西洋哲学史に関する講義案を練り、次のように書きとめています。
この[古典期ギリシア]時代にこの学を営んだ人びと(賢者)たちは、「ソヒスト」とみずからを名のった。この語の意味は「賢哲」ということだから、かなり誇った名称であった。[それに対して]かのソコラテスは謙遜して、みずからを「ヒロソフル」と名のった。この語の意味は「賢徳を愛する人」ということだから、いわゆる「希賢」の意味と均しいと思われる3。
賢者を自負するソフィストと区別して、ソクラテスはみずからを、いまだ「賢徳」に達していない者、だからこそ「賢徳」を愛し 希こいねが う者と位置づけました。西はこのような姿勢を「希賢」という訳語で言い表します。「賢」(才知がある、かしこい、すぐれていること)と「哲」(道理に明るい、さとい、かしこいこと)はほぼ同義ですから、「希賢」という語は、「希哲」と互換的です。これらに「学」という語を加えれば、「希賢学」と「希哲学」という語ができあがります。
西は「理学」や「性理学」という従来の訳語を踏襲しないで、「希賢学」や「希哲学」という新しい訳語を考案しました。それはなぜか。ひとつには、「知を愛する」(愛知)という原義を大切にしたためです。もうひとつには、儒学(宋学)の伝統と一線を画すためでした。
彼は西洋(西欧)の伝統を東洋(東アジア)の伝統から明確に区別し、その違いを際立たせようと試みたのです。彼は後年、二つの伝統を次のように対比させています。
この儒学の根元は孔子と孟子にある。学者たる者は、孔孟の学派を連綿と相続してきた。これに手を加えて変革することはなかった。しかし西洲[西洋]の学者は太古から、その学[の伝統]を連綿と受け継いでいるが、各々の発明によって以前の学者の説を討ち滅けし、ただ動かすことができないことだけを採用するため、学[の営み]は次第に開かれ、新たにされるにいたった4。
西によれば儒学では、孔子や孟子など先人の学説のうちに真理が置かれ、批判的な検証なしに墨守されるため、始祖を超えて発展することがありません。「漢儒が卓越にいたらないのは、泥古[古いものに拘泥する]の二字にある」とみるわけです5。それと対照的に、西洋の愛知(philosophia)の営みにおいては、先人の学説を論駁するという仕方で、伝統が批判的に継承されます。ここに西は、二つの学的な営みの根本的な差異を認めるのです。
3『西周全集 第1巻』大久保利謙編、宗高書房、1960年、16頁。『西周全集』からの引用にあたっては、表記を現代仮名遣いに改めてあります。
4『西周全集 第4巻』大久保利謙編、宗高書房、1981年、169頁。
5同書、182頁。