
対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話
かつて西その人が書きとめた通り、これは「かなり誇った名称」(原文では「いと誇りたる称」)です。
西はこの点でも、コントやヘーゲルの歴史観から影響を受けています。それは歴史が特定の目的へむかって、単線的に進歩するという歴史理解です。コントの三段階の法則によれば、神学的段階は形而上学的段階によって、形而上学的段階は実証的段階によって乗り越えられ、統合されます。諸学の体系は、実証的段階にいたって完成されるわけです。またヘーゲルによれば哲学の歴史とは、理念がみずからを生み出し、矛盾を解消し、みずからを具体化していくプロセスをいいます。プロセスの途上に位置する過去の哲学は、必須な一段階として、全体のうちに位置づけられます――ただし、いわば下絵として、ヘーゲルその人が構想する「絶対的体系」のうちに組み入れられるかたちで。ヘーゲルはみずからの体系によって、歴史を完結させようとするのです。
歴史は特定の目的へむかって、単線的に進歩する。このように歴史を説明するとき、ひとは「生活世界」(地上)を離れて、「神の視点」(上空)から歴史全体を俯瞰しています。しかし現実には、だれも神の高みにみずからを置くことはできません。神の視点をもつことなどできません。むしろ「歴史」は、ひとが過去の出来事を結び合わせ、「物語る」ときに立ち現れます。わたしたちはそのような仕方で、歴史を生きているのです。野家啓一は、次のように指摘します。
人間は「物語る動物」あるいは「物語る欲望に取り憑かれた存在」である。それゆえ、われわれが「物語る」ことを止めないかぎり、歴史には「完結」もなければ「終焉」もありえない11。
「哲学の歴史」(哲学史)についても、同様のことがいえます。過去の哲学者たちの学説を自身の一つの完全な哲学体系に組み入れようというのですから、ヘーゲルは「自分こそが哲学というプロジェクトを他のすべての学説以上に巧みに、しかもはるかに遠大な規模で遂行できる」と自負していることになります。しかし、この自負は楽観的すぎるでしょう。
哲学の歴史を叙述するとき、ヘーゲルは自らの問題設定とそれに応じた観点から、過去の膨大な学説を取捨選択し、そのうえで自身の解釈に従って個別のテキストを読み、その内容を要約しているはずです。そこには解釈者の問題関心とそれを支える時代背景・社会状況が反映されています。テキストは多様な解釈に開かれており、唯一の絶対的な解釈など存在しません。「哲学の歴史」は多様に語られるのです。「ひとつの歴史」がないように、「ひとつの哲学史」など存在しません。「どこにもありどこにもない」と題された文章でメルロ・ポンティが指摘するように、「あらゆる哲学を包含するただ一つの哲学というものは存在しない」のです12。
11 野家啓一『物語の哲学』岩波現代文庫、2005年、13-4頁。
12 メルロー=ポンティ『シーニュ1』竹内芳郎他訳、みすず書房、1969年、210頁。
さらに外国語で異文化のテキストを読むともなれば、解釈と翻訳は読み手の数ほどあります。さらに哲学書の場合、「すぐさま一方から他方へ翻訳することも、一語ずつ重ね合わすこともできないような、哲学者の数だけ言葉があって、それが哲学というもの」を形づくっていますし、「ある哲学が他の哲学にとって必然的な意味をもつその意味合いも、それぞれの哲学で」異なります13。
哲学の歴史を叙述する際、ヘーゲルはどうやってこの問題を克服したのでしょうか。非西洋(「東洋」)の伝統思想とどのように向き合ったのでしょうか。彼は「概念は世界をその多様性のままに全面的に捉え直すものだ」という「西洋的な真理の考え方」に依拠して、「東洋を、西洋と同じ企ての失敗例として規定し」ました14。それに応じてヘーゲルが描く哲学史では、中国とインドの「東洋哲学」が「真の哲学」でなく「前座をつとめるもの」として、「講義の本論」の前に配置されます15。そのうえで彼は、「ギリシアにおける哲学の”始まり”」から説き起こします。テキスト解釈と翻訳の多様性は顧みられず、異文化の思想の他者性が尊重されることはありませんでした。相手の言説に注意深く耳を傾け、学ぶという「対話」の姿勢が欠落していたといってよいでしょう。
しかし西は、ヘーゲルと同様の流儀で、東アジアの知的伝統を「哲学」から排除します。「我が国のごときは、さらに哲学と称すべきものすくなく、漢のごときも西洋の比にあらざる」と裁断を下します16。中江兆民も『一年有半』に、「わが日本 古いにしえ より今に至るまで哲学なし」と書き記しています17。二人は、「東洋」(東アジア)の知的伝統に通じていました。
にもかかわらず、どうしてヘーゲルとともに、これを「西洋」のそれより、一段低いところに置くのでしょうか。
西たち留学生が渡欧した時代、ヨーロッパでは西洋中心主義の価値観が最高潮に達していました。そのようななかで西洋文明にふれた留学生たちは、西洋中心主義的な価値観を内面化し、帰国しました。それとともに「哲学」は西洋固有のものであり、東アジアの伝統思想は「哲学」の名に値しない、むしろ「思想」と呼ぶのにふさわしい、曖昧なものだという理解が普及したのです。
「哲学」は古代ギリシアで生まれ、中世ヨーロッパでキリスト教思想と融合し、西欧近代にいたって開花するというステレオタイプの哲学史があります。「哲学」は長いこと、西洋を中心に、それどころか、西洋においてのみ発展すると前提されてきたのです。このような理解に従うかぎり、非西洋諸国・地域における愛知の営みは、「哲学」の亜種として周縁化されるか、「哲学」の前段階に位置づけられます。
※なお「どこにもありどのにもない」と題された文章は、『著名な哲学者たち』というアンソロジーの序文として書かれたものです。
13 同書、216頁。
14 同書、223頁。
15 ヘーゲル『哲学史序論――哲学と哲学史』武市健人訳、岩波文庫、1967年、207頁。
16 前掲『西周全集 第4巻』、181頁。
17 中江兆民『一年有半』岩波文庫、1995年、31頁。