
対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話
しかし20世紀後半に入ると、「哲学」を西洋中心主義の呪縛から解放する試みが次第に見られるようになりました。たとえばメルロ・ポンティは、インドや中国の「哲学」の固有な性格に光を投げかけ、そこに人間と存在の関係(rapports)に関する、西洋の哲学とは異なった捉え方、哲学の「異本」を見出します18。これら異種の哲学から学ぶことで、「われわれが『西洋的』になることによって自らに閉ざしてしまったさまざまな可能性を測り、またおそらくはそれをふたたび開く術を学ぶことができる」というのです19。
またマーティン・バナールの『黒いアテナ』に代表されるように、古代ギリシア文明の歴史的起源を問いなおすことで、古代ギリシアを「西洋文化」の起源とする歴史観(アーリア・モデル)の虚構性を暴き出す研究も登場しています20。近年は「世界哲学」という試みも、広がりを見せています21。これに呼応するかたちで、「アフリカ哲学」や「中国哲学」とともに、「日本哲学」が国内外から注目を集めています。「哲学の中心点はどこにでもあるが、哲学の周縁はどこにもない」というメルロ・ポンティの認識が今や、広く世界で支持を集めているのです22。
哲学すること
それが探究の営みであるかぎり、「哲学」には完結や完成はありません。哲学するという生の実践を手放さないかぎり、わたしたちは探究者として、常に「道」の途上にあります23。
「哲学」と聞いて、あなたは歴史上の代表的な哲学者たちの著書を思い浮かべるかもしれません。しかし問題は、それらのテキストをあなたがどう読むかです。あなたは一つひとつの文字を辿りながら、書かれていることを理解しようと努めるはずです。知らない言葉に出会えば、調べるでしょう。論理展開を追えずに、立ちどまることもあるでしょう。なぜこのような主張がされるのか、にわかに理解できず、著者の主張の背景を探ったり、主張の根拠を吟味したりすることもあるでしょう。
こうした一連の作業を通して、あなたは著者の問いを共有し、著者とともに哲学的な探究を遂行しています。「哲学する」( philosophieren)という営みが始動しているのです。それに反して、著者の主張を鵜呑みにして、受け売りするとき、あるいは自分の気に入った言葉ばかりを収集するとき、たとえ哲学史に登場するさまざま概念を習い覚えていたとしても、あなたは「哲学する」こととは無縁です。たかだか哲学の歴史を学んでいるにすぎません。
18 前掲『シーニュ1』229頁。ただし訳語は一部変えてあります。
19 同書、230頁。
20 マーティン・バナール『ブラック・アテナ1 古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ』片岡幸彦訳、新評論社、2007年。
21 『世界哲学』全8巻、伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留責任編集、ちくま新書、2020年。
22 同書、210頁。ただし訳語は一部変えてあります。
23 ハイデガーは哲学や思索のありようを、しばしば「途上」(Unterweg)や「道」(Weg)という言葉で言い表します。