対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話

 さらにオランダ留学(1863-5年)を経て、西は「希賢学」や「希哲学」という訳語を捨て、「哲学」という訳語を用いるようになります。1870年に私塾の育英舎で行った『百学連環』講義では、「希賢学」と訳すことも可能だと留保を加えながらも、「哲学」という訳語を採用します。そしてそれ以降、一貫して「哲学」という語を使用します。なぜ西は「希賢学」や「希哲学」という訳語を捨て、「哲学」という訳語を用いるようになったのでしょうか。彼はオランダでどのような経験をしたのでしょうか。
 ひとつには、西洋の「学の体系」にふれました。西は学友の津田とともに、ライデン大学の経済学・統計学の教授、シモン・フィッセリングの自宅で講義を受けました。その講義は、法学・経済学を中心に、基礎から始めて、学的な体系に沿って学びを進めるというスタイルでした。講義は「性法」(自然法)、「万国公法」(国際法)、「国法」(憲法)、「制産学」(経済学)、「政表」(統計学)という5つの学問分野に及びました。それを通して西は、これら個別科学の学びにとどまらず、「学の総合的体系」(仏語では Encyclopédie、独語ではEncyklopädie)にふれたのです6。彼は帰国後、これを「百学連環」という日本語に訳し、普及を図ります――それが先に紹介した私塾での講義タイトルです。学は相互に連関して、知の体系を構成する。愛知の営みも例外ではなく、「学の体系」のうちに位置を占める。西はこのように考えるようになるのです7
 もうひとつには、西は留学中に、当時のオランダでもっとも有力であったオーギュスト・コントの実証哲学やジョン・スチュアート・ミルの功利主義から大きな影響を受けました。
 帰国後も、コントが提唱する三段階の発展の法則にくりかえし言及します。学問は文化や社会とともに、超越的原因(神)によって現象を説明する「神学的段階」から、抽象的概念(本質や本性)によって現象を説明する「形而上学的段階」を経て、もっぱら現象や法則に依拠する「実証的段階」へ進歩する。西はコントともに、このように考えるようになります。この観点から彼は宋学を、デカルトからヘーゲルにいたる西洋近代の「合理主義哲学」とともに、第二の形而上学的段階へ分類します。そのうえで、これまでの「空理」(形而上学)の段階を脱し、経験と帰納法に基づく「実理」(実証)の段階へ進むことを提唱します8。この理解に基づいて、哲学は「実学」に分類されることになります。
 以上の通り、オランダ留学を境に、西の描く構図は大きく変化します。

6 Encyclopédie という仏語は、現在は「百科全書」ないし「百科事典」と訳されます。
Encyklopädie という独語は、ヘーゲルがみずからの哲学体系を展開した著書『哲学的諸学のエンチクロペディ要綱』(初版1817年)の表題を構成しています。
7 帰国後に公刊された『百一新論』(1871年)では、「哲学」が「天道人道を論明して、かねて[あらかじめ]教の方法を立つる」ことと定義されます(前掲『西周全集 第1巻』、288-289頁)。ここで「教」とは、「人の人たる道を教ふる」ことをいいます(同書、235頁)。学の体系における「哲学」の役割は、天道と人道を学的に究明する方法・原理を確立することに求められるのです。
8 前掲『西周全集 第4巻』、61-3頁。

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