対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話

 渡航前は、批判的思考や自由闊達かったつな討論の有無によって、西洋と東洋の知的伝統を区別し、前者の愛知の営みに「希賢学」や「希哲学」という訳語をあてていました。しかし留学を経て、彼は「学の体系」のうちに愛知の営みを位置づけます。さらにコントの三段階の法則を踏襲することで、伝統的な西洋哲学を「形而上学」とひと括りにし、経験主義・実証主義的な哲学に傾倒するようになります。「哲学」というとき、西は経験に立脚し、帰納法を駆使する哲学を念頭に置いているのです。
 コントその人は、社会学を新しい基盤として、個別諸科学の統一を試みました。彼は実証主義の創設者であるとともに、社会学の創設者でもあるのです。皮肉なことに、そのコントに依拠して、西は「哲学」という訳語を採用したことになります。
 その後、「哲学」という語は日本社会に定着していきます。1877年に東京大学が創設される際には、「哲学科」が設置されました。1881 年に東京大学から発行された辞典にも、『哲学字彙』という表題が与えられました。

「哲学」は西洋のものか?

 以上の経緯を踏まえて、改めて考えてみることにしましょう。「希賢学」「希哲学」と「哲学」の違いはどこにあるのか。「哲学」という語は、どのような意味をもつのか。
 「希賢」という言葉は、宋学の開祖、周濂桂渓の『通書』(志学第十)の「聖希天、賢希聖、士希賢」(聖は天を希い、賢は聖を希い、士は賢を希う)という表現に由来します9。「希賢」は「賢を 希こいねが う」という意味をもつのです。「賢」という字の使用を避け、「哲」という字を採用したのは、儒学(宋学)の伝統と一線を画すためです。これに関して田中美知太郎は、次のように指摘します。
 この哲の字は、その意味から言えば、智や賢と同じような意味のものであろうが、普通語にはあまり多く用いられない文章語なのであると言われている。したがって、わたしたちが哲学という名前だけでは、何のことか、すぐに見当がつかなったのも、べつに不思議はないと言わなければならない。もっとも、漢学に親しむことの少ないわたしたちにとっては、哲学という名前は、最初の人たちにとってよりも、いっそうわかりにくいものになっていることは否定できないであろう。わが国の哲学は、すでにその最初の名称において、言葉の不明に苦しむ運命を暗示していると言うことができるかもしれない。10
 「希哲学」と「哲学」の区別についても、考えてみることにしましょう。「希」(希う)という語が消去されることで、同時に、探究の途上にあるというソクラテス的な自覚が除去されてしまいます。それとともに「哲学」という語は、「哲」に到達した「学」、完成した学という意味合いを帯びることになります。

9 周敦頤・張載『太極図説・通書』西晋一郎・小糸夏次郎訳、岩波書店、1938年、41頁。
10 田中美知太郎『哲学初歩』改版、岩波全書、1977年、6頁。

関連記事一覧