対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話

 残念ながら、筆者は、これらの問いに即答することができませんでした。問いかけを受けて、筆者は異国の地で自問自答しました。なぜこのような惨事が起きてしまったのか。事故を未然に防ぐことはできなかったのだろうか。
 重大な事故や事件が起きたり、新しい社会課題に直面したりすると、日本社会ではしばしば「社会的な議論が足りなかった」、「議論を尽くす必要がある」といわれます。福島での原発事故後も、この種の発言が多く見聞されました。ここで立ちどまって、考えてみましょう。はたして「社会的議論」が不十分だったのでしょうか。
 1979 年には米国のスリーマイル島で原発事故が起こりました。1986 年にはソ連邦のウクライナ共和国でチェルノブイリ原発事故が起こりました。これらの事故は日本でも広く報道され、多くの議論を呼び起こしました。テレビや新聞、雑誌では、多くの専門家や識者が原発のリスクについて危機意識を表明していました。RC サクセションや THE LUEHEARTS、佐野元春などのアーティストたちも、それぞれの危機感から原発事故を題材に楽曲をつくり、歌っていました。アルバムが発売中止になるという社会的事件もありました。多くの議論があったのです。
 しかしそこには、ひとつの特徴が見られました。ほとんどの議論は、原子力発電の「是非」をめぐって戦わされました。しかもそのさい推進者と反対者は、互いの主張に耳を貸さず、ひたすら自説を押し通していました。その結果、議論はいつも平行線をたどりました。かりに反対者が表明する懸念に推進者が耳を傾けていたならば、より成熟したリスクマネジメントが可能になったことでしょう。また、かりに推進者の主張とそれを支える論拠に反対者が耳を傾けていたならば、より現実的で持続可能なエネルギー政策を立案できたかもしれません。
 問題は「社会的な議論」の有無ではない。むしろそのあり方、進め方にある。筆者はこのように考えるようになりました。

◆ 「対話」のレッスン

 ボロースでは、カーリン・ダールベリ(Karin Dahlberg)教授と親しく交流しました。彼女は精神看護の分野での研究と実践に基づいて、ケアリング学(caring science)を提唱していました。北欧諸国におけるケアリングの実践と理論に関する共同研究4を通して、筆者は彼女と知り合いました。筆者を客員教授としてボロース大学に招聘してくれたのも、彼女です。

4 科学研究費助成事業(基盤研究B)「北欧ケアの実地調査に基づく理論的基盤と哲学的背景の研究」(研究課題22401016、2010-12年、研究代表者・浜渦辰二)

関連記事一覧