対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話

第3回 対話とはなにか

 「対話は大切か?」と尋ねられたら、あなたはどう答えますか。対話の重要性を頭から否定するひとは、たぶん少ないでしょう。じっさい現代社会では、「対話」の意義が多方面で強調されます。政治・宗教的対立や紛争を乗り越えて、平和を実現するため、民主主義を根づかせるため、相互理解を深め、信頼関係を築くため、協働的なアクションを生み出すため、さらには新しいアイデア・価値を創出するために、対話が重要であるといわれます。それに応じて教育の場で、また政治や科学技術への市民参画の場面で、対話が重視されています。組織を活性化し生産性を向上させるという理由から、多くの企業が対話を積極的に導入しています。
 「対話とはなにか?」と問われたら、どのように答えるでしょうか。おそらく回答に窮するのではないでしょうか。それはあなたに限りません。「対話」という言葉は、頻繁に口にされ、その意義が強調されるものの、定義が明示されることはまれです。
「定義」という言葉は、難しく響くかもしれません。この語は definition という英語の訳語として、西周にしあまねが造り出したものです1。「境界を定めて、範囲を区切り、限界を明確にする」という語義をもつラテン語動詞(definire)に由来します。ある言葉の意味を明確に定め、その概念的な広がりを限定することをいいます。「対話とはなにか」という問いに対する答えに相当します2
 「対話」という言葉は好んで口にされますが、ほとんどの場合、定義が明示されないまま、曖昧に、多義的に使用されています。具体例をひとつあげておきましょう。
 最近、あるシンポジウムに登壇したときのことです。フロアから、「対話」の可能性について質問が提起されました。それに対してパネリストの一人は、「自己との対話」と「死者との対話」、「自然との対話」に言及しました。「対話」の定義を素通りして、これら3つのバリエーションにふれたのです。はたしてこれらは「対話」と呼べるのか。その答えは「対話」の定義によって決まります。
 「自己との対話」や「死者との対話」、「自然との対話」は、「他者との対話」と同列に並べることができるのか。他者との対話には、言語が介在します。ならば自己との対話、死者との対話、自然との対話にも、言語が介在するのか。もしそうだとしたら、それはどんな言語なのか。また死者や自然との対話とは、具体的になにをいうのか。そもそも死者や自然とのあいだに、対話は成立するのか。それともただ比喩的に語られているだけなのか。あるいは主観的に対話したつもりでいるだけなのか。これらは開かれた問いです。しかし「対話」の定義が明示されないかぎり、いずれの問いにも回答することができません。
 同じ「対話」という語が用いられていても、それぞれの意味するところが異なるとしたら、「対話」の理解は深まらないばかりか、混乱を引き起こすでしょう。その混乱ゆえに「対話」そのものが捨てられてしまうとしたら、それはあまりにもったいないことです。
 このような理由から、今回は「対話」の定義を試みます。まずは語義・語源に考察の糸口を求め、「対話」の輪郭を描きます。次いで、コミュニケーションとしての「対話」の特徴を浮き彫りにします。そのうえで「対話」を「会話」や「議論」、「討論」から区別し、その境界を画定します。このような仕方で「対話とはなにか」という問いに回答します。

1『百学連環』での西の記述を紹介しておきましょう。読みやすいように、表記を改めておきます。「学に definition すなわち定義というものがある。(略)たとえばどこに国があると述べても、なにを指して国と呼んでいるのかは知られないままだ。ただ土地があるだけでは国とはいえない。土地があって人民がある、人民があって政府がある。これを国という。」(『西周全集第1巻』日本評論社、1945年、43頁)
2 たとえば「人間とはなにか?」という問いに対して、「ロゴス(言葉)をもつ動物」(アリストテレス)と回答したら、そのように「人間」を定義したことになります。

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