対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話

「対話」という日本語

 「対話」という日本語から始めることにしましょう。この語は中国(元代)の白話(口語・俗語)文学で初めて用いられました。それが日本へ移入され、室町期頃から使用されるようになりました。その後、江戸末期から明治期にかけて、dialogue などの西欧語を翻訳する際に、この単語が訳語として採用されました。今日の用法はこれに由来します。
 「対話」という熟語を「対」と「話」に分解して、考察してみましょう。読者のみなさんも、お手もとの漢和辞典で調べてみてください。後者の「話」という漢字は、「言」と「舌」が組み合わされたもので、「言葉が思うように流れ出る」こと、つまり「話す」ことを意味します3。前者の「対」には、①応える・答える、②向き合う、③相手になる・つりあう、④相手・つれあい、⑤つい・二つで一組のもの、といった意味があります4。ここから「応答」「対面」「対等」「パートナー」という意味合いを汲みとることができるでしょう。ここで「対面」とは、さしあたり「面と向かって」という位置関係を指します。ただ相手と向き合うとき、顔と顔を合わせて話し合うとき、そこに人格的な交流が生まれるでしょう。
 これらを踏まえると、「対話」は次のように定義されます。「対話」とは、「パートナーとして、相手と正面から向き合いながら、対等な立場で、相手の言葉を受けて話す」ことをいうのです。
 国語辞典も見ておきましょう。たとえば『日本国語大辞典』では、「対話」が「直接に向かい合って互いに話をすること」と定義されます5。「直接に向かい合って」は、上の定義の「相手と正面から向き合いながら」(「対面」)と合致します。また「互いに話をする」は、一方通行的ではなく、双方向的にということですから、「相手の言葉を受けて発言する」(「応答」)に相当します。国語辞典の定義には、「対等」と「パートナー」という要素が欠けています。しかしこれらは「対話」が成立するために不可欠なものと考えられます。その理由は以下の通りです。
 ひとつには、「対等」でない関係では、対話が成立しません。たしかに主従関係の場合も、言語的なやりとりはあるでしょう。しかしその大半は命令や指示、情報伝達など一方通行的なものでしょう。部下(臣下)はボス(君主)の意に反して、自分の考えを率直に表明する自由をもちません。そこには「対話」の余地がないのです。
 もうひとつには、対話とは言葉のやりとりを通した共同作業ですから、対話の相手は「パートナー」と位置づけられます。じっさい対話のあり様は、相手とのパートナーシップに応じて大きく変わるでしょう。対話は、相手と自分のあいだで進められる、一回的な言葉の出来事です。だれを相手とするかによって、姿とかたちを変えます。また発せられる言葉は、発話者の人生の経験に根ざしています。対話においてわたしたちは、かけがえのない者として他者と出会うのです。

3 鎌田正・米山寅太郎『漢語林』大修館書店、1987年、1010頁。
4 同書、313頁。
5 日本国語大辞典 第12巻』日本国語大辞典刊行会、小学館、1974年、649頁。

関連記事一覧