
対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話
しかし対話的探究では、「対面」の意味合いがやや違ったものになります。共有された問いの前に共に立ち、それを引き受けて対話が進められるからです。問いを囲んで、対面するのです。たとえていえば、参加者どうしは縁側に共に腰をおろし、庭先の同じ対象(花や庭木、石など)に視線を向ける関係(「縁側の関係」)にあります。もっぱら相手と向き合い、相手の表情を注視するというより、むしろすこし異なった座位から、互いの違いを生かして、共通の問いへアプローチするのです。このアプローチでは、自他の違いが宝となります。視点の多様性は、探究に豊かさをもたらすからです。
言語的コミュニケーションには、「対話」のほかにも、「会話」や「議論」、「討論」があります。順に検討し、「対話」と区別しておきましょう。

会話との違い
「会話」という日本語は、「会」と「話」という語から成ります。「会」という漢字は、「会う」のほか、「集まる」「 集う」という意味をもちます。したがって「会話」とは、会って話すこと、集まって話すことをいいます。それに応じて国語辞典では、「二人以上、少人数の人が集まって互いに話をかわすこと」と定義されます7。
「会話」を表わす英語(conversation)は、相手と交わり、親しむという語義をもつ動詞(converse)に由来します。この語源を踏まえると、「会話」の語義がより明確になります。「会話」とは、相手と交際し、親交する言語的コミュニケーションをいうのです。
相手と交際し、親交するという場面で、わたしたちは、どのように言語的コミュニケーションを進めるでしょうか。相手と共通の話題を選ぶはずです。政治や宗教など、相手の立場によっては論争や対立を引き起こしかねないテーマは、慎重に避けられるでしょう。さほど親しい間柄にない場合は、お天気などあたりさわりのない話題が選ばれるでしょう。その場合、天候そのものがひどく気になっているわけではありません。天候について究明したいわけでもありません。むしろ共通の話題のもと円滑に会話を進め、相手との距離を縮めることが企図されています。この目的に応じて、会話の話題は自在に変転します。個々の話題に対する関心や究明の意欲を欠いているため、中途でそれを放り出すことができるのです。
すでに確認したように、狭義の対話、つまり対話的探究では、問いが共有されます。それに応じて対話的探究は、だれでも参加できるという開放性ないし公共性を備えています。これに対して会話では、話題が共有されます。話題の選び方によっては、会話は内輪・排他的なものになります。なるほどお天気が話題にされる場合は、その場に居合わせる人すべてが話題を共有し、会話に参加することができます。しかし家族・友人の近況や組織の課題が話題にされる場合、これらの事情に通じていないアウトサイダーは、会話に加わることができません。当の話題について予めなにごとかを知っていることが前提とされるため、会話は排他性を伴うのです。じっさい三者以上による会話では、しばしば一者が取り残され、排他性が際立つことが少なくありません。
宗教間対話や異文化対話といわれるように、対話では、相手と自分の違いが前提され、大切にされます。立場や考え方に違いや隔たりがあるからこそ、相手と「正面から向き合いながら、対等な立場で、相手の言葉を受けて話す」ことが切に求められるのです。それに対して会話は、相手と自分の共通点に依拠して展開されます。
人と人には共通点と差異がともに認められます。それに応じて人間のコミュニケーションは、「同」と「異」の双方に基づいて構築されます。この観点から対話と会話を区別すれば、対話は相手と自分の「異」を、会話は「同」を前提に進められるということができます。対話は「異」の原理、会話は「同」の原理に支えられているのです。
7『日本国語大辞典 第4巻』日本国語大辞典刊行会、小学館、1973年、315頁。