
対話的探究への招待――哲学すること、対話すること 第1部 哲学と対話
議論・討論との違い
「議論」という語は、中国の『史記』に用例が見られます。この語は「議」と「論」から構成されます。「議」という漢字は、「言」と「義」が組み合わされたもので、「正しい道(義)を求めて発言する」という意味をもちます8。また「論」という漢字は、「言」と「侖」が組み合わされたもので、「筋道を立てて考えをまとめ、発言する」という意味をもちます9。これらを踏まえると「議論」は、「正しい道(義)を見出すため、筋道を立てて考え、発言すること」を意味します。議論に参加する一人ひとりが筋道を立てて考えて発言することで、多くの知恵が結集され、正しい道(義)が見出されると解釈することができるでしょう。
英語の語義も検討しておきましょう。英語の名詞discussionは、discutereというラテン語動詞に由来します。これは接頭辞disと、「揺り動かす」や「打ち砕く」という語義をもつ動詞 quatere とを組み合わせたものです。この語源を踏まえると、discussion は「(新しい視点を導入して)既存の見方を解体し、分析すること」を意味します。複数の提案や所説を並べ、新しい視点からそれらを客観的に分析する、いわば俎上に載せて解体するわけです。それはなんのためにか。それを通して最善の結論に到達するためです。
漢語と西洋語の二つの定義は響き合います。「既存の見方を解体し、分析する」ことは、「筋道を立てて考え、発言すること」でもあります。「 正しい道(義)を見出す」という目的は、「最善の結論に到達する」という目的とほぼ同義です。議論においては、このような目的にかなった意見、最善の結論へ導く意見こそがよい意見であり、それがだれの提起した意見であるかは、さしあたり二次的な問題です。
それに対して国語辞典の定義は、ニュアンスをやや異にします。「互いに、自分の意見を述べ、論じ合うこと。意見を戦わせること」と定義されるのです10。ここには、「筋道を立てて考える」ないし「既存の見方を解体し、分析する」という思考・探究のプロセスが見あたりません。共に「正しい道(義)を見出す」、力を合わせて「最善の結論に到達する」という目的も欠けています。これら二つの要素が欠落したところで「互いの意見を戦わせる」と、各人は自分の意見こそが正しいという思いこみ(ドクサ)のもと、自説を押し通すことになるでしょう。そして自説が論駁されると、まるで自分の存在が否定されたように怒りや悲しみを覚えるでしょう。
勝ち負けや得失がもちこまれると、純粋な議論は「討論」(debate)に姿を変えます。参加者は相手の論を討ち負かすことに熱中するのです。「討」という漢字は、肘(ひじ)と口で罪人を攻め立て、問いただすことを意味します11。英語の debate は、ラテン語のdebatere に由来します。これは接頭辞 de(離れて)と動詞 battere(打つ、戦う)を組み合わせた語です。手足や武器を使って相手を直接に打ち負かすのでなく、言葉を用いることで、距離をおいて、相手を討ち負かすというわけです。
8 前掲『漢語林』1028頁。
9 同書、1019、83頁。10 『日本国語大辞典 第6巻』日本国語大辞典刊行会、小学館、1973年、304頁
11 前掲『漢語林』1002頁。