• 十代の地図帳
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中江有里さん(女優・作家・脚本家)

 中江有里さんはマルチな才能を持つタレント・文化人である。89年、美少女コンテストで芸能界入りをした後は、まずはアイドル街道をひた走り、歌手活動などを精力的に行ってゆく。その後2002年にラジオドラマの脚本『納豆ウドン』で入選を果たすと、そこから今度は作家への道を歩み始めるわけだが、高校入学をきっかけに上京した少女のそのうちに秘めたる情熱の炎とマルチな才気はどこに端を発したのか──、十代の轍を訊ねた。

幼い頃はどんな少女でしたか

 一言で言うと不器用な子供でしたね。体育の授業では、なかなか上手に跳び箱を飛べなかったり。なぜって、悠々と飛ぶ子たちの姿を見ながら(あれは一体どうやって飛んでるんだろう……)と、いちいち考え込んでしまうんです。そんなわけだから水泳も大の苦手で、(どうすれば水に浮くか)なんて考えながら、闇雲に手足を水中でバタつかせては浮いたり沈んだりを繰り返して。たまらず担任の先生に助けを求めると、「体の力を抜いてみなさい」と教えてくれる。すると、面白いように身体が水中で浮き上がって……。それでやっと納得するような子でした。”パッと見ただけで理解する”というのがとにかく苦手で、何をするにも時間がかかっていましたね。それで子供心に、(自分は『ウサギとカメ』のカメさんだから地道に行こう)、と決めていました。

そのころ得意だったものはありますか

 唯一得意にしていたのが作文ですね。もともと活字を眺めるのが大好きで、そこから読書を楽しむようになって。それでか作文だけは不思議とすらすらと書けたんです。作文を書くときは、必ず教材の例文を読んでから書き始めるんですが、ただそれを真似るのではなくて、まず一度作品自体をじっくりと味わって自分の世界に持ち帰ってから、それにアレンジを加えていました。今思うと、他人が跳び箱を飛ぶ様子を見て真似るのは苦手だったけど、作文のように自分なりの考えを表現するものは得意だったのかもしれないですね。当時は、自分の苦手の多さがコンプレックスの種でしたから、作文は一筋の光明でしたね。

将来について考え始めたのはいつごろ

 小学校の高学年頃には、”将来はもの書きの道に進みたい”と漠然と考えるようになっていましたね。ところが、丁度そのころ読み始めたミステリー小説が、自分にはどうも難解で。密室殺人をはじめとした多彩なトリックに驚きながらも、同時に(私にはこういうのは書けない──)と失望して。一度は諦めそうになったりもしました。

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