連載「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

問いの設定

 「対話」という言葉は好んで口にされます。しかしほとんどの場合、その定義が曖昧にされたまま、多義的に使用されています。同じ「対話」という言葉が用いられていても、それぞれの意味するところが異なるとしたら、「対話」の理解は深まらないばかりか、混乱を引き起こすでしょう。そのために「対話」そのものが捨てられてしまうとしたら、それはあまりにもったいない。このような理由から、前回は「対話」の定義を試みました。
 対話は一般に「パートナー」「対面」「対等」「応答」という 4 つの要素から構成されます。問いが共有されると「探究」の要素が加わり、対話は「対話的探究」に姿を変えます。
 ひとつの問いの前に共に立ち、答えを手にしていないという対等な立場で、言葉のやりとりを通して、共同で探究が進められます。
 こうして「対話」は広義と狭義に分けられます。それぞれは次のように定義されます。
 広義の「対話」は、「パートナーとして、相手と正面から向き合いながら、対等な立場で、相手の言葉を受けて話す」ことをいいます。狭義の「対話」、つまり「対話的探究」は、「共通の問いの前に立ち、探究のパートナーとして相手と向き合いながら、対等な立場で、相手の言葉を受けて話す」営みをいいます。
 ここからわかるように、対話は一般に、それが広義のものであれ、狭義のものであれ、今、ここにいる他者とともに進められることを前提にしています。その都度の状況のもと、各々の身心の状態に基づいて、言葉が発せられ、聴かれ、応答されるのです。相手の表情や姿勢、視線、さらに声のトーンも、対話の進行に少なからぬ影響を与えます。対話は、同じ空間に身をおく生身の人間のあいだでくり広げられるのです。
 それに反して「死者との対話」は、不在の他者とのあいだで進められます。対話の相手は今、ここにいませんから、現在の状況は共有されません。この場で、即妙に、言葉を発することもありません。こちらが語りかけても、それに対する直接的な応答が返ってくるわけでもありません。相手の身体的な反応から、沈黙の意味を読みとることもできません。
 このような相手と対話することは、はたして可能なのでしょうか。
 ひと口に「死者」といっても、生前に親しく交わった相手と見知らぬ相手とでは、対話の可能性は大きく異なります。かつて共に生きた家族や友人、恋人であれば、故人との生前の対話を足場にすることができます。しかし、生前に会ったことのない死者の場合、生者(自分)と死者(相手)の間で、ゼロから対話を創りあげなければなりません。それは途方もなく困難な試みと思われます。また故人との対話可能性は、対話ファシリテーション塾での先の女性の発言に見られるように、とても切実な問題です。それを踏まえて今回は、生前に親しく交わった死者、つまり故人との対話に絞って、考察を試みます。

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