
連載「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
故人は死者として、「今、ここ」というわたしたちの地平に属さず、それを超え出ています。わたしたちは、残された言葉を手がかりに、その彼方(かなた)へ向けて呼びかけることになります。その意味では、生者と死者は「対等」ではありません。
しかしそれは「対話」の不可能性を意味しません。先に確認したように、今、ここで、故人と共有したいと願う課題や苦悩、問いがあり、その共有が試みられるかぎり、故人は対話のパートナーとなりうるからです。対話のあり様は、相手とのパートナーシップに応じて大きく変わります。そして故人をパートナーとする対話は、生者をパートナーにした対話と異なります。相手はわたしたちの地平を超え出ているからです。故人との対話において、わたしたちは究極の「他者」と出会うのです。
④ 相手の言葉を受けて話す
故人との対話においても、相手の言葉を受けて話すことは可能です。生前に語られた言葉、書き遺された言葉を踏まえて、これに応答するという仕方で言葉を紡ぐことができます。筆者の場合、父との死別後に、父の旧友が父から受け取った書簡の束を贈ってくれました。それを読んで、大学入学以降の父の苦悩や葛藤にふれ、筆者は父と出会いなおすことができました。それ以前に抱いていた故人の像が更新されたのです。
⑤ ひとつの問いの前に共に立つ
これは対話的探究に固有な条件です。対話的探究においては、共通の問いを囲んで、対話を進められます。故人と問いを共有することは、はたして可能なのでしょうか。
生前に故人から投げかけられ、その場で回答できなかった問いがあります。そのような問いは、折にふれて回帰します。遺されたひとは、その問いを継続的に問い続けるでしょう。
筆者は大きな問いの前に立たされて、逝去した恩師や畏友と対話を試みることがあります。今を生きる者として、新しい問いの前に立たされる。生者のうちには、その問いを共有できそうなひとは見あたらない。そこで直面する問いを故人に投げかける。その問いをはたして故人が受けとってくれているのかどうか、それは確かめようがない。けれども、ともかく故人の応答を待つ。それは自問自答ではありません。あくまでも、そのひとだったらどう考えるだろうかと、故人の応答を待つのです。といっても故人はストレートに回答してくれません。生前に故人が語ってくれた一つひとつの言葉を思い起こし、現在の問いに照らして、新たな視点から、かつての言葉を受けとめなおすことで、故人の応答が浮かび上がってくるのです。