
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
わたしはこの人間よりは知恵がある。それは、たぶんわたしたちのどちらも立派で善いことをなにひとつ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、わたしの方は、知らないので、ちょうどその通り、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかそのほんの小さな点で、わたしはこの人よりも知恵があるようだ。つまりわたしは、知らないことを、知らないと思っているという点で。6
ここでは「知る」と「思う」が明確に区別されています7。「知る」とは、明確な根拠に基づいて真理を把握していることをいいます。そして「知らないことを、知らないと思っている」からこそ、知ろうとする探究の営みが始まります。「知る」が「思う」から区別されることで、知を愛し求める営み、つまり「哲学すること」(philosophein)が可能になるのです。
この「不知の自覚」に基づいて、ソクラテスは対話を通して、彼自らが「思っている」ことを検証していきます。しかしそれを通して相手の「恥ずべき無知」――不知の無自覚――が露呈されます。知を愛し求めない相手は、自負や自尊心を打ち砕かれ、恥辱を味わいます。しかもソクラテスの流儀を真似して、彼の周辺の若者たちがアテナイの有力者たちを次々に論破します。こうしてソクラテスは、アテナイの有力者たちの憎悪を一身に受けることになったのです。
プラトンは、この憎悪こそが告訴の最大の理由であると考えました。それに応じて『ソクラテスの弁明』のソクラテスに次のように語らせます。
わたしは、まさにこのこと、つまり”真実を話す”ということで憎まれているのだということを、よく知っています。そしてわたしが憎まれている”というまさにそのことが、わたしが真実を語っていることの証拠であり、そして、わたしへの中傷とはまさにこういうもので、これが告発の原因であるということの証拠でもあるのです。8
6 同書31-2頁(21d)。
7 同書127頁(解説)。
8 同書40頁(24a)。
