
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
エロースが美への愛であるかぎり、エロースは美を欠いていることになります。美を欠いているものを「美しい」といえないとすれば、「エロースは美しい」と主張することはできません。エロースの本質を「美しさ」のうちに見定めていたアガトンは、こうしてアポリア(行き詰まり)に陥ります。
前回『ソクラテスの弁明』に即して確認したように、たいていの相手は、ここで恥辱を味わい、反感を募らせます。しかしアガトンは違います。祝賀会の主役であり、ホストであるにもかかわらず、「わたしはおそらく、ソクラテスよ。先ほど語った事柄について、なにひとつ知ってはいなかったのです」と、率直に打ち明けます7。「知らないことを、知らないと思っている」ことがわかちあわれることで、エロースを探究する共同の営み、共に哲学するという試みが可能になります。
ソクラテスは愛情をこめて、若きアガトンに語りかけます。自分も若い頃には君と同じような考えを抱いていた。しかし、(ペロポネソス半島中部の山中にある)マンティネイアという小さなポリス出身の巫女との対話を通して、エロースを究明する機会に恵まれた。自分は先ほど、彼女と同じ流儀で、君との対話に臨んだのだ。こうしてソクラテスは、師ディオティマとの対話を再現して、アガトンに語り伝えます。
ダイモーンとしてのエロース
ヘシオドス以来、エロースはギリシア神話における太古の偉大な神と見なされてきました。にもかかわらずディオティマは、「エロースは神でない」と喝破します。「美」という重要な資質を欠如する者は、「神」とはいえないというのです。ならばエロースとは何者なのか。そう問いかける若きソクラテスに対して、ディオティマは、「ダイモーン」(神霊)であると回答します。
ダイモーンとは、死の定めにある人間と不死の神々の中間に位置し、両者を橋渡しする媒介者です。日本の伝統では「精霊」や「守護神」に相当します。エロースの場合も、自らが美を備えているわけではありませんが、そのことを自覚し、だからこそ美に憧れ、美を愛し求めます。かりに美について、まったく与り知らなかったら、そもそも憧れることも、愛し求めることも、美の欠如を自覚することもなかったでしょう。その意味でエロースは、美への途上にあるといってよいでしょう。
なぜエロースは、美しいものを愛し求めるのでしょうか。アリストファネスの回答は、それが人間の本性だから、というものです。ディオティマの回答は、これと異なります。それが「よいもの」であるから、美しいものを愛し求めるというのです。たとえば事故や病気のため、わたしたちは身体の一部を除去するという選択を下すことがあります。それが「よい」選択だと判断するからです。「よい」選択を通して、「よいもの」を手に入れようと考えるのです。ただ自然本性に従うだけならば、このような選択は不可能なはずです。エロースは、よいものを自分のものにすることを求めるのです8。
7前掲『饗宴』119頁(201B)。 前掲『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』129頁。
8前掲『饗宴』132頁(205A)。
