「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

哲学する者として生きる
 ディオティマは若きソクラテスに語ります。

 エロースは、知と無知の中間にいます。それはこういう意味です。神々はだれひとりとして、知を愛し求めませんし、知者になることを欲しません。すでに知者なのですから。(略)また無知なひとたちも、知を愛し求めませんし、知者になることを欲しません。まさにこれこそが頑迷な無知の所以なのです。つまり、美しくも善くもなく、知恵もないのに、自分は十分だと思いこんでいることが。欠乏していると思わない者は、自分に欠けていると思わないものを欲しません。9

 若きソクラテスはディオティマに尋ねます。「知者でも、無知な者でもないとしたら、知を愛し求める者とはだれでしょうか」。ディオティマは答えます。「それは子どもにも明らかです。両者[知者と無知な者]の中間にあるものです。そのうちのひとりがエロースなのです」10
 知はもっとも美しいもののひとつですから、エロースが美しいものを愛し求めるかぎり、エロースは知を愛し求めることになります。それを踏まえてディオティマは、エロースを「知を愛し求める者」(philosophos)と特徴づけるのです。
 エロースは当初、ダイモーンとして姿を現しました。その姿がここで、知と無知の中間にある者、それゆえ知を愛し求める者(愛知者)という明確な像を結びます。エロースのはたらきに与るかぎり、わたしたち一人ひとりは、中間者として存在することになります。エロースのはたらきを知へ向けるとき、わたしたち一人ひとりが知を愛し求める者、つまり哲学する(philosophein)者となるのです。
 エロースを讃美する言説の競演に先立って、ソクラテスは謎めいた言葉を発していました――「なんといっても私は、エロースに関すること以外はなにも知らないと宣言している者なのだから」。今やその意味は明らかでしょう。ソクラテスは、ソフィストたちのように「知者」を名乗ることなく、むしろエロースのはたらきをたえず知へ向けて、「知を愛し求める者」としての生を全うしたのですから。

二つの生き方~哲学と政治をめぐって

 ソクラテスがスピーチを終えると、泥酔したアルキビアデスの一行が宴席に乱入します。アルキビアデスは剛健な身体をもつ、才気あふれる青年です。しかしソクラテスの姿を目にとめると、驚きの声をあげ、狼狽します。そして酔いにまかせて、ソクラテスに対する自身の愛憎を赤裸々に語ります。それは哲学することへの愛憎といってもよいでしょう。

9前掲『饗宴』128-9 頁(203E-204A)。前掲『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』155頁。
10 前掲『饗宴』129頁(203A-B)。前掲『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』155頁。

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