
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
政治家として活躍するアルキビアデスは、かつてソクラテスのもとで学んでいました。しかしソクラテスが自ら実践し、他者にも勧める生き方、つまり哲学する生を引き受けられずに、ソクラテスのもとを去ります。あたかも美しい歌声で人間を魅惑し、生命を奪うセイレーンから逃れるように、耳を塞ぎ、ソクラテスの魅力から逃れようと試みるのです。しかしソクラテスのもとを離れてしまうと、大衆の称賛を得たいという欲望に負けてしまう。そのためソクラテスと再会すると自らを深く恥じる、そのように彼は打ち明けます。
政治家アルキビアデスはその後、破滅の道を歩みます。それとともにアテナイは没落の一途を辿ります。ペロポネソス戦争(紀元前 431-404 年)の経緯に即して、それを確認しておくことにしましょう。
紀元前 431 年、デロス同盟の盟主アテナイは、ペロポネソス同盟の盟主スパルタと戦火を交えます。長期化する戦争に厭戦気分が高まり、421年、アテナイはニキアスの主導のもと、ペルシアと和平を結びます。しかし、つかの間の平和は、アルキビアデスの手によって破壊されます。彼は主戦論を唱え、巧みな演説によって市民たちの熱狂的な支持を得ます。無謀な計画を立てて、シチリア島への遠征を決行します。アテナイの遠征軍は全滅し、将軍ニキアスはシラクサの地で刑死を遂げます。アルキビアデスは敵国スパルタへ亡命し、アテナイの内部情報を流します。彼はその後、スパルタも追われ、ペルシア、アテナイ、トラキアを渡り歩いた末に、暗殺されます。紀元前404年、アテナイは包囲され、降伏します。
アルキビアデスは家柄もよく、容姿端麗で、豊かな才能にも恵まれていました。男性からも女性からも愛され、人望もあったようです。弁舌の才にも恵まれ、だからこそ大衆の扇動にも成功しました。詩人たちが讃美するエロース神の化身のような人物だったといってよいでしょう。ただし彼には、ひとつだけ欠けているものがありました。それは知を愛し求め、哲学することです。彼はエロースのはたらきを知へ向け、探究者として生きることができなかったのです。
それと対照的に、ソクラテスのもう一人の弟子プラトンは、現実の政治から距離をとり、師から受け継いだ哲学する生き方を実践していました。しかし政治的な混乱が続き、アテナイには黄昏が迫ります。法律や政治制度に関する助言を求めて、政治に携わる人たちが次々にアカデメイアの学園を訪問します。彼は助言を与えながら、政治のあり方について思索を深めていきます。やがて、哲学という基盤のうえに政治的な統治を打ち立てる構想を固め、シチリア島のシラクサへ出かけます。政治改革を志す盟友ディオンの懇請に応えて、哲学することを学ぶ機会をディオニュシオス2世に提供し、「哲人政治」を実現しようと試みるのです。
プラトンは紀元前387年に初めてシラクサの地を踏み、紀元前367年に再訪します。対話篇『饗宴』は、ちょうどその間の時期(紀元前 380 年頃)に執筆されています。そのような背景のもと、同書には政治家アルキビアデスが登場するのです。かつて師ソクラテスのもとで学んだアルキビアデスは、いったいどこで道を誤ったのか。そう問いながら、プラトンは哲学と政治の関係について考察しているのです。セイレーンのようなソクラテスの呼びかけ、哲学することへの呼びかけにどう応えるか、そのうえで政治とどのようにかかわるか。そのように自問しながら、プラトンはこの対話篇を執筆しているのです。
ソクラテスの二人の弟子が選びとった生き方は、哲学すること、哲学的な生き方について、また哲学の公共的な使命と社会・政治とのかかわりについて、わたしたちに大きな問いを投げかけているのです。

竹之内 裕文(たけのうち・ひろぶみ)
静岡大学未来社会デザイン機構副機構長、農学部・創造科学大学院教授。専門分野は哲学・死生学。東北大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。東北大学大学院文学研究科助手、静岡大学農学部・創造科学技術大学院准教授を経て、2010年4月より現職。ボロース大学(スウェーデン)健康科学部客員教授(2011-12年)、グラスゴー大学(英国)学際学部客員教授(2022年)、松崎町まちづくりアドバイザー(2022年-現在)。 「対話」と「コンパッション」を柱に、国内外で広く活躍している。死生学カフェ、哲学塾、風待ちカフェ、対話・ファシリテーション塾などを主宰する。団体コンパッション&ダイアローグ(一般社団法人化を予定)代表。『死とともに生きることを学ぶ 死すべきものたちの哲学』(ポラーノ出版)により第14回日本医学哲学・倫理学会賞を、研究発表「『死』は共有可能か? ハイデガーと和辻との対話」により第8回ハイデガー・フォーラム渡邉二郎賞を受賞。
(モルゲンWEB20251220)
